―移住に賭けた我らが世界― 第1章 草創期⑰

―移住に賭けた我らが世界― 第1章 草創期⑰
サンパウロ新聞にあいさつに訪れた南米学生親善使節調査団の一行(1960年2月20日付けサンパウロ新聞から転載)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟 外史

岸総理南米講演会は海外派遣の一大転機

 学移連は、この講演会が大きな転機になった。設立のきっかけを作った海協連は、各国に移住者を送出する実務機関ではあったが、設立当初、学移連に資金的な支援はほとんどなかった。ただ、設立2年目、堀口進一が委員長時代に海協連は「日本学生海外移住連盟助成要綱」を作成し、助成を始めることを決めた。その最初の補助金は学移連が受託した「国内開拓と海外移住」の調査だった。

 この調査は、海協連が冊子として残し、以後この小冊子は外務省が大蔵省に予算請求するときに長年にわたり大きな役割を果たしたという。このことは、学移連に委託調査を任せた当時の海協連の若槻が後に堀口に語っていたのだが、当の学移連は最近まで知る由もなかった。

 50年代初頭の大学進学率を見るとわずか18・4%にしかすぎず、当時の大学生はエリート集団だったと言える。彼らがまとめた調査報告書を読むと、理路整然としており、これが大学生が執筆したものとはとても思えないような素晴らしい出来栄えだ。

 それまで、連盟員は大学のサークルで移住や地域研究をする傍ら近隣や地方の高校などに遊説と称して移住や海外の講演会に出掛ける程度の活動しかできなかった、と回顧している。

 ところが、この調査を行うことで、まさに「水を得た魚」のように能力を発揮、学移連の設立趣意書にある崇高な理想を背景に移住史に残る快挙を成し遂げた。

◆岸首相に海外派遣の支援を要請し道筋つける

 だが、連盟員は移住研究会にしろ、地域研究会にしろ最大の目的は、海外に連盟員を派遣することだった。唯一、1955年、学移連設立直後に拓大の市川益男が移民助監督となり、移住船で南米へ渡ったことだった。これは、第3期から第5期まで委員長を務めた拓大の葛西清忠が回想録に書いているのだが、調べたところ、事実は異なっている。

 1955年12月15日に発行された「日本学生移住連盟會報」創刊号に「7月15日 連盟より南米調査のために派遣した市川益男君(拓大移研)は、移民監督助手をも兼ねて神戸を出航」とある。さらに調べると、この時の移民監督は海協連専務理事で拓大講師の鳥谷寅雄だった。鳥谷が教え子の市川を助手として連れて行ったことが分かる。この文面から読み取れるのは、市川の派遣目的は南米調査であり、移民監督助手という肩書は、あくまでも鳥谷が市川を連れて行くための名目だった。創刊号は、さらに次のように書いている。

 「去る七月十五日オランダ船チャチャレンガ号にて神戸を出港した調査員市川益男君(拓大移研)は、南米に向う航海中に行った移住者の調査…」とある。移民監督の下で移住者の世話をしたのではなく、移住者の実態調査を行ったのだ。この調査によると、農業者の移住しか認められていないのに移住者300人余りのうち、農業経験者は15%しかいないこと、各市町村の担当者は義務的にしか対応しないこと、応募から出発まで時間が短く、十分な用意ができておらず、移住者の不安を増幅させていること、など各県ごとに移民の選考が不徹底であると結論付けたのだ。

 学移連の調査としては、アカデミックで移住者の実態を良くとらえており、調査としては高い評価を受けても不思議ではない。

 ところが、送出団体の海協連としては批判されているため、受け入れがたい内容だったに違いない。

 この翌年に海協連が作成した「学移連助成要綱」の「同連盟員の輸送助監督」とは根本的に相いれない。これでは、海協連に移民助監督の枠を得られるように働きかけても認めてはもらえなかったのは自明の理であろう。鳥谷のような理解者が常に移民監督ではないので、助手としての継続派遣は成立しなかったのだ。

 ところが、岸首相との出会いは新たな展開のきっかけとなった。学移連という名も知れない学生団体が講演会を依頼して講師を引き受けたのか。学生の情熱だけで引き受けたとは考えにくい。後年、岸首相は「岸信介の回想」(1981年6月、文藝春秋刊)という対談集を出版している。その206ページにその謎が隠されている。

 ヨーロッパの後、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ペルー、メキシコを歴訪した岸首相は、「中心はブラジルですか」という問いに、「ブラジルですね。ブラジルには日本人移民がたくさんいるわけですね。首都ブラジリアは未完成で、国会もまだ建設中、大統領官邸だけが完成していた程度でした」と語り、続いて「一番印象に残っていることと言えば何ですか」の質問にこう答えている。

 「それはブラジルですね。日本人移民、日系人が各界に活躍していることですね。大学生も日本人が多いし成績もいい。将来のブラジルをになう知識階級の重要な部分を占めるだろうと思いますね。あれだけ日本人が行っているのに日本の現職の総理が誰も行っていなかったんだから」

 このブラジルの日系社会の重要性を認識し、将来、日系人がブラジル社会の重要な地位を築き、新しい移住者を送出することでより一層、貢献できると確信していたに違いない。だからこそ「海外移住」を看板に掲げる学移連の依頼に応えたことは間違いないだろう。その学生の熱意に応じ、講演会終了後、岸首相は私邸に連盟員たちを招き、連盟員たちと交流を深めた。

 しばらくして、富田は新聞で皇太子殿下御成婚を記念して青年の海外派遣制度が実施に踏み切ることが報じられていたのを知った。この後の話は、富田が書いた「岸総理講演会顛末記 ㊦」に詳しく書いているので省略する。

 岸首相は、30万円の寄付を申し出て、奉加帳に書き込んだ。そして、経団連などに紹介状を書き、寄付金集めの支援をしてくれた。

 葛西が作成した「南米学生親善使節調査団」の派遣趣意書には、中南米8か国3人の団員の派遣にかかる費用を約320万円と計算した予算書が残っている。

 当時の大卒公務員の給料が1万3000円だったことを考えると、いかに高額な予算だったかがわかる。この金額をわずか1か月で集めたのだから、岸首相の財界への影響力が大きかったことが理解できる。同年12月、葛西ら3人の調査団が出発した。岸私邸を訪問してわずか2か月足らずの早業だった。

 翌1960年4月に同使節団は帰国した。当時、日本は日米安保条約をめぐって全学連が中心となり大規模なデモを繰り返し、騒然としていた。その中で安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り内閣総辞職をせざるを得なくなった。

 岸首相は、学移連の学生たちに海外派遣の道筋をつけ、その一方で全学連の学生たちの安保反対運動で辞職せざるを得なかった。奇妙な巡りあわせだった。

 この「南米学生親善使節調査団」が引き金となり、学移連は同年、第一次南米学生実習調査団を派遣、以後毎年実習調査団を送り出す力を付けた。

 ところが、学移連の念願だった海外派遣の道を拓いた葛西らの南米学生親善使節調査団については、報告書もなければ、派遣団員が帰国後に話した内容もほとんど残っていない。不思議な話である。この調査団の実績を明らかにしなければと考え、OBの力を借りて史資料を漁った。出てきたのは、連盟史を根底からひっくり返すような公文書だった。この連載を支えている連盟史研究会の面々は頭を抱えてしまった。第2章の冒頭から知られざる連盟史の一端が明らかになる。(第1章おわり)

【お断り】
 今回で第1章を終えました。約1か月間休ませていただき、6月初旬から再開します。第2章は1960年から68年までを飛躍期として書き進めます。

     ◎

 題字の「日本学生海外移住連盟」の文字は第2代顧問会会長・後藤連一氏(日本大学教授)が揮ごうしたもので、長年学移連事務所に掲げられていた表札。

2018年5月10日付

コメント1

  • Mutsumi Narita Reply

    2018年08月01日 at 23:05

    第2章開始、楽しみにしているのですが未だ始まらないようですね。
    再開は何時になるのでしょう?

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