―移住に賭けた我らが世界― 第2章 飛躍期②

―移住に賭けた我らが世界― 第2章 飛躍期②
南米学生親善使節調査団の着伯を知らせるサンパウロ新聞記事(1960年2月24日付け)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟 外史

公文書に自己保身の言い訳書いた職員
葛西らに非は少なく、功績が大きい

◆外務省公文書の読み方

 連盟史研究会は、自らの結論が間違いないのかを裏付ける必要があるため、元外交官に公文書について説明を受けることを考えた。1970年代にリオデジャネイロ総領事館に勤務したことのある元外務省官僚に公文書について話を聞いた。

 それをまとめると次のようになる。

 ①文書の作成は案件毎に担当官が決まっていて、文章はその起案担当官の心情が現れ、反映される。

 ②本省と在外公館との交信の宛先は全て長である、外務大臣と大使、総領事となる。日付は起案日と発信日の2つ書かれるが後ろの日付が文章の日付となる。

 ③交信と半交信の違いは交信には通し番号が振られている。半交信は主に在外公館に対し日本からの訪問者に対する便宜供与の指示などで起草される。

 以上の事から考えると、石井総領事から藤山愛一郎外務大臣にあてた公文書は特別のものではなく、通常の連絡事項で担当領事が本省の担当官に連絡文書を書いたに過ぎないことがわかる。

 この文書の起案者は南米学生親善使節調査団に対する便宜供与担当領事本人であり、同使節団がサンパウロの後に訪ねたポルトアレグレで藤本総領事に、サンパウロ総領事館に対する苦言を言われた。即ち自分の対応を非難され、その弁明も込めて、些細な問題や、移民船で毎回起きるイザコザの伝聞を拾って書いた保身文書になっている可能性が強い。そしてこれを受け取った本省は回覧後、よく起こるこの手の問題であるが、火の無いところに煙は立たずの理屈で、学移連の学生に注意を喚起した程度の交信だったことがわかる。

 その証拠は同使節団帰国の6カ月後、学移連は第1次南米学生実習調査団12人を送り出したとき、外務省が中心となって財界への支援を取り付け、団員の実習先の決定などに便宜供与を与えるなど全面的な協力をしていることだ。石井公文書の影響は全くなかった、と断言できる。

◆傍若無人だった葛西

 しかし、他の面で南米学生親善使節調査団側に問題がなかったかわけではない。葛西たちは帰国報告会も行わず、帰国報告書も作成していない。

 拓大OBで葛西とともに岸信介邸の夕食会に出席した、井上順八に確認を取ったところ、葛西の壮行会、帰国報告会に出席した記憶はなく、彼らの旅行の記録、写真も見た覚えはない、と断言している。

 唯一確認が取れたのは、帰国後の地方遊説だった。第2次南米学生実習調査団の副団長だった佐藤義勝(日大)が、東北遊説に同行しており、話を聞いた。

 佐藤によると、報告会途中で「気分が乗らない」などと早々に切り上げてしまうことがあり、対応に苦慮したという。要するに振る舞いが酷く、わがまま放題だった。

 また、第2期委員長の堀口進一(上智大)も「葛西は南米から帰国後、尊大な口の利き方をするようになった」と回顧している。

 南米からの帰国後ではなく、出発前にすでに、その兆候はあったと富田眞三(早稲田大)は指摘する。富田と今村忠夫(日大)の師匠であったリコーの市村社長にお願いして、三人にリコー・カメラを寄付してもった際、葛西は平然と「こんな安物のカメラはいらない」と言い放って、富田らの面子を丸潰しにした。幸い、市村が高級カメラと交換してくれたのだが、富田は「あの時は冷や汗をかいた」と苦笑いする。

 富田と今村が南米学生親善使節調査団の3人が横浜港から神戸港経由で出発するに際して、横浜港から神戸港まで同乗した。神戸に着いた夜、わざわざ北海道から神戸へ見送りのために新井範明(上智大)が来ることになっていたにも関わらず、新井の到着を待たずに、葛西ら三人は神戸の街に繰り出して行った。新井は北海道の町村牧場で研修中のため同夜、日本海経由の列車で北海道へトンボ帰りしたのだが、葛西らは相手の立場など全く無視した傍若無人な態度をとったという。

 葛西は神戸出航前、すでに「人格が変わり、天下を取ったような気分になっていた」(富田)と回顧する。

◆それでも大きな葛西の貢献

 岸首相の講演会を実現し、数か月後には南米学生親善使節調査団を組織して中南米訪問を現実のものにし、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったのだから有頂天になってもおかしくない。葛西のこうした性格的なものを見るのではなく、学移連活動の中で葛西の果たした役割をどのように判断するのかが大切になる。

 葛西が実現した同使節団の功績は次の4点に集約されるだろう。

■学移連は海外移住を研究するに当たって、現地事情を肌で体験することの重要さを説き、設立当初から海外派遣事業を模索していた。しかし、設立から5年近くもの間実現できなかった。念願だった海外派遣を実現し、後輩たちに新たな道を切り拓き、夢を与えたこと。

■南米学生親善使節調査団派遣は後輩の南米学生実習調査団派遣へと進化するきっかけと刺激を与えた。葛西らが帰国後半年で委員長だった羽嶋禎紀(早稲田大)は第1次南米学生実習調査団派遣を実現させたが、この企画書の中に葛西の親善使節団を「第1回」と位置付けている。それを継続する形で南米学生実習調査団構想を組み立て、先輩たちが切り拓いた海外派遣の継続を強調した。これを見ても、葛西が後輩に与えた影響は計り知れないと言えるだろう。

■南米学生親善使節調査団派遣によって、学移連は社会的に認知されるに至り、「もう一つの学生運動」と言われるまでになった。そして、学移連は外務省と密接になり、続いて組織された第1次南米学生実習調査団の現地での受け入れ先の便宜供与をはじめ外務省を通じて経団連などの経済界とのつながりを強固にしていった。

■葛西は卒業後、岸派の中村寅太代議士の秘書を数年務める事になるが、その後も学移連のロビー活動を行ったと推測出来る。これは学移連関連外交文書に岸元総理の名が登場している事実、また実現はしなかったが、学移連後援会の会長に岸元総理の名が外務省メモとして残されている事を考えると、当時葛西が学移連のロビイストとなった事は想像に難くない。

 対外的なことばかりではない。内部的にも、葛西は南米学生実習調査団の選考委員として後輩たちから尊敬されていた。学移連の草創期から飛躍期へと結びつけた大きな役割を果たした委員長だった。(敬称略、つづく、鈴)

2018年9月26日付け

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