―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑦

―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑦
SUDENEから日本大使館に届いた書状(右)と大使から外務大臣あての同書状に対する公文書(左)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟外史

ブラジル公的機関に絶賛された第1次団
水産大の蓑輪和彦の活動に後続者の要請

 羽嶋は、帰国報告書の中で「我々が各分野でその責任を果たしてきたということがとりもなおさず今後我々青年が海外に進出し将来は必ず責任を果すことが出来ることを立証したのである」と誇らしげに成果を書いた。12人の団員がそれぞれ精一杯の努力をした賜物だ。その中で、水産部門で渡伯した蓑輪和彦はSUDENE(東北伯開発庁)の局長から高く評価され、SUDENEがリオデジャネイロの日本大使館へ東京水産大学(現東京海洋大学)学長に学生の派遣要請の依頼状が届いている。
 その詳細を書く前に、当時の日系コロニアについて書いてみよう。
 
◆重宝がられもしたが差別された戦後移民

 戦後ブラジルへの移住が再開され、戦前移民は「新しい日本の血が入る」と歓迎した。その一方で「新移民」と呼び、一線を画した態度も見え隠れする。

 この理由は、戦後日系コロニアで起こった「勝ち組負け組」の抗争が尾を引いていた。当時、心情的に日本に勝ってほしかったという心情的勝ち組も含めて移民の90%以上が勝ち組だった影響が大きいと推測される。戦前とは違った価値観を持った戦後移住者に対して「どこか違う」と違和感を持っていた。

 このため、「新移民」を雇用農として受け入れた戦前移民の中には、単なる労働者として彼らを扱い、騙したり、使い捨てにした人たちがいた。戦争が始まった時に取り残されたという棄民思想が芽生え、閉鎖的な社会だったことが、影響していたのだろう。

 さらに、戦前の移住者の子弟の中には、同じ年代の単身移住の青年たちといがみ合い、サンパウロの日本人街で日系2世と新移住者の若者たちが、抗争を繰り返した。ちょうど、第1次団が訪伯した1960年代初めのことだ。

 原因は、日系女性の争奪だった。1世の両親は、娘婿に日系人より日本人をという気持ちが強く、「新移民」がちやほやされたことに不快感を持っていたのだ。当時、単身で移住し日系企業で働いた人は、「2世たちにいじめられ、そのことで反発した」と振り返る。

 こうした社会背景の中で実習生として各分野に入った学移連の学生に対して当時の引受先になった日系コロニアのリーダーたちは、社会の活性化に大きな期待を寄せたことは間違いない。しかし、実習先や各地で接した日本人、日系人から必ずしも厚遇されたわけではなかったはずだ。戦前から戦中、戦後にかけて辛酸をなめつくした人たちにしてみれば、「我々の苦労などわからない」という気持ちが強かったのだ。今でも戦後移住者たちは「我々は、本当の移民の苦労はわかっていない。彼らの基盤があったからこそ、今の我々がある」と敬う気持ちは忘れていないことからも理解できる。

 ブラジル各地に散らばり実習し、調査した学生たちは活字にはできないような思いをしたことだろう。既に書いた第1次団団員がパウリスタ新聞に批判されたように、針小棒大に報じられるのもこうした影響が少なからずある。

◆水産関係専門家らと対等に議論した蓑輪

 さて、話を本題に戻そう。水産部門の実習生として渡伯した蓑輪は、最初に日冷の現地会社INBRAPEに配属され、リオデジャネイロ、レシフェで実習に励んだ。帰国間際になってレシフェ郊外のタマンダレー水産学校で生徒と寝起きを共にして交流を深め、SUDENEにも通い様々な交歓を行った。

 SUDENEの企画局は、漁業増産計画を策定しており、そこで蓑輪はブラジルの水産関係の生物学専門家、経済専門家らと行った意見交換が高く評価されたのだ。SUDENE企画局長ヴァスコンセイロが日本大使館に宛てた書状は、次のように書いている。

 「蓑輪君は真摯な努力によって数カ月間という短期間にポルトガル語で意見を発表し書くことができるようになりました。我々は貴国の水産大学の学生、とくに英語が話せるかあるいは蓑輪君のようにポルトガル語の習得が得意な学生の来訪を常に歓迎いたします。

 SUDENEの名において私は、日本大使館が東京水産大学学長に対し、我々の希望、即ち、たとえ短期間のものであれ、この度の最初の接触が水産業振興を目的とする研究の分野において、経験及び情報の頻繁な交換の端緒となることを希望していることを伝達されるようお願いする次第であります」

 この文書は、大使館から公文書で外務大臣あてに送られている。外務省が第1次団派遣に際して、積極的に協力、支援したことが間違いではなかったことが証明された。この信頼が、第2次団以降への協力・支援につながったことは言うまでもない。

 また、移住業務にかかわっていた日本海外協会連合会の機関紙「海外移住」の1961年11月15日付紙面のコラム「一寸一言」に「平和部隊」のタイトルで第1次団を取り上げている。

 帰国した第1次団が全国遊説していることを取り上げ、団員の蓑輪がSUDENEから高い評価を受けたことを紹介し、「これら学徒が自主的に企画し相次いで南米大陸に実習を兼ねて調査に当たっていることは、まことに喜ばしいことである」と称賛している。

 当時、米国のケネディ大統領が、ニューフロンテア精神を提唱し、未曽有の危機に対し「平和部隊」構想を打ち出したことを紹介。同構想に対して10代の若者から80代の老人まで競って志願したことを説明している。

 そして、日本の自民党も「平和部隊」構想を練っていると伝え、「日本学生海外移住連盟の南米実習調査団の企画こそ国の力で、もっと充実し、計画的に、協力に推進して欲しいものだ。これこそ『平和部隊』としての一部の任務を果たしていると申しても過言ではあるまい。この学徒実習調査団は、将来実現するであろう『平和部隊』の先進的役割を果たしつつあるともいい得るであろう」と結び、大きな期待を寄せたのである。

 ちなみに、ブラジルは未だに水産業が遅れているが数少ない水産学部で最高峰に位置するサンパウロ総合大学(USP)に水産学部を創設したのは東京水産大学を卒業した日本人であり、教授陣の中に学移連OBもいた。間接的にしろ、学移連の活動がブラジルの水産部門に大きな足跡を残したことは誇れることだ。

(敬称略、つづく、鈴)

2018年10月3日付

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