―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑧

―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑧
初めて行った全国合宿を大きく報じた海協連の機関紙「海外移住」(1962年8月15日付)紙面

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟外史

派遣団選考㊤
団員選考を透明化するため選考委員会設置
第9期委員長 富田 博義

 第6期委員長の羽嶋禎紀(早稲田大)に続く第7期委員長田中桂(中央大)も第2次南米学生実習調査団を組織し、財界などから賛助を得て16人の派遣団員を送り出した。この派遣選考方法は役員が中心になり決めていたため、派遣団員は現職役員が多く、全加盟校に開かれたものではなかった。当然、関東が中心となっていたため関西からの批判は強く、そのことが原因となって、両地区がぎくしゃくし、組織内で不満がたまっていた時期だった。
 この執行部のやり方を改革しなければ、設立当時の高邁な理想がなくなり組織としての統率がとれないと立ち上がった男がいる。第9期委員長の富田博義(早稲田大)だった。まず、学移連OB会設立準備会が2011年に出版した「我が青春の学移連」第2号に寄稿した「派遣団選考」と題した文章を読めば、富田の心情がよくわかるので、2回に分けて連載する。
【編集部】

行きたい人より行かせたい人
一〇年ひとというが五〇年ともなれば半世紀! ではないか。

 紅顔豊頬の美青年も早古稀をむかえてかつての天下無敵の無鉄砲さは薬にしたくてもない。その記憶は時を経ておぼろになりいずれが真か虚かの判断も覚束ない。

 こんなになってはかつて若き血をたぎらせ何事かを成すべく志を同じくする仲間達と切磋琢磨した学移連のその時代だけの記憶が特別鮮明に残っている訳ではない。

 今思うとあの頃はただ夢中にそれを行うことがあたかも使命であるかのようにただひたすら勉強もせず馬車馬のように走り回っていたことだけは確かだ。そして半世紀たってあのときあんな風に考えてあんなことをやったのかと書かされるハメになるとは夢にも思わなかった。

 仕方がない書きましょうと書き始めたが書いているうちにちょっと待てよまだ関係者はお元気に各方面で活躍されているのだからご迷惑をかけぬように書かねばならないという思いと、ちゃんと書きたいという思いに揺れた。

 当時はただ若さの赴くままに学移連はこうなければならない、組織はこうでなければならないという思いが全てを占めていた。

 中学高校と野球部仕込みの個人よりチームを優先する環境に身を置いて体にしみ込んだ感覚の赴くままに行動したものと思う。

 小田実が「なんでも見てやろう」を書いたのもその頃だ。当時の若者の夢を端的に表していたと思う。私もそうは思ったがたった一人で世界を見に行く事なぞ容易いことで明日にでもできる。それではつまらない。学移連のような組織で大勢の人間と一緒に話し合い、計画して共に出かけたり、送り出したりすることこそが男の本懐だとヒョットしたら本気で考えていたのかもしれない。

 学移連は昭和三○年の創設以来海外発展を志す学生達が集まり、今思えばそれは焼け野原の敗戦からわずか一○数年しかたっていなかったのだ。若者たちは敗戦の混乱と今では考えられない貧しさにありながら次第に頭を上げて世界に目を向け始めたのだ。世界を見て回りたいものだと。こういう若者達とは別に貧しさから国民を救うのは共産主義が良いとする学生達も多く、時あたかも日米安全保障条約の締結に向けて日本を西側諸国と運命を共にする国にせんとする岸政権に対してそれを阻まんとする左翼学生は国会議事堂をデモ隊で埋めて抵抗した。日本は共産化するのではないかと内外では危ぶまれた。その頃我々学移連は外務省に呼ばれて米国国務次官補と対談させられたこともある。外務省は日本の学生は全学連だけではないということを見せたかったのだと思う。米国側でもそれを知りたかったのだろう。

 ある時は外務省移住局長高木広一氏と関西支部長新谷正さんと私は日本教育テレビ(註1)の十五分番組で対談させられたこともある。話題は「青年の夢・海外移住」だったと思う。

 そんな時代背景のもとで岸信介首相は学移連を可愛がってくれた。それ以来岸派の山口六郎次代議士、その没後は田中龍夫代議士が顧問代議士として我々が直面する問題解決に我々だけでは会ってもくれない官僚や実業家に口をきいてくれました。

 話は少しさかのぼる。私は大学二年生であったが学移連にはあまり顔を出していなかっか。ただ兄や兄の高校の同級生の堀口進一さん(後学移連委員長)を見たりしてその迫力、人格に彼らの作り上げた学移連の人間性のある高いレベルの志向、行動を感じていた。ところが大学の移住研からその当時の学移連を見ているとどうもその創設時のハイレベルなイメージとは違う方向へ向かって歩んでいるように感じられた。それでは創設期の先輩達のひたむきな高い理想と違った学移連になってしまうのではないか、苫労して作り上げた先輩たちの志を冒涜するものではないかという思いに駆られた。それからは早大の学移連幹事となり学移連の会合に出席することになった。

 杉野先生発案の日本初の第一次南米学生実習調査団が学移連役員と各学校の学移連幹事の血と汗と抜群の行動力と杉野先生の陣頭指揮による賛助金集めの成果で調査団はついに海を渡ったのである。そして幸い何事もなく無事一年の実習を終え成功裏に帰国したのであります。当時のNHKのゴールデンアワーの人気番組「私の秘密」に帰国した団員が出演したのをテレビの前で誇らしく見たのを思い出します。

 そして第二次実習調査団が間をおかずに派遣されることになりました。

 第一次調査団は当然のことながら計画の全てがはじめてのことばかりであった。ブラジルでの実習先の確保、乗船する船をブラジル航路を持つ船会社(おもに日伯合弁製鉄会社ウジミナス資材運搬船)に安く乗せてもらうために政治力を駆使して交渉する。船賃を会社寄付によって集めたり、それらの初めて事柄をやり遂げた学移連役員が先頭に立って船上人になり調査団員となって派遣されブラジルでの実習を行うのが当然のことであった。

 第二次調査団もやはり本部役員が大部分を占めた。これもまだ初期であり手続渉外など慣れない困難もありある程度やむをえないことといえぬこともないがやはりその過程を見ていると学移連という大きな組織から調査団が派遣されるにしてはその組織に相応しからぬ少人数内で調査団員が選ばれているように見え不自然さを感じたのであった。その理由は第一は本部役員の任期は一年であるにも関わらず調査団派遣の準備を終えるとそっくりそのまま当たり前のように実習調査団員となってしまうのだった。或いは、本部役員を半年で辞めてしまい任期を全うしないで船上の人となってしまった。言い方は悪いが学移連本部の仕事を放ったらかしてブラジルへ行ってしまうように見えた。(つづく)

(この原稿は、学移連OB会設立準備会が2011年に出版した「我が青春の学移連」第2号から転載したものです) 

註1=(株)日本教育テレビは、昭和32年設立、後にNETテレビに社名統一、昭和52年愛称をテレビ朝日、現在朝日新聞傘下。

訂正=第2章飛躍期③④に掲載(9月27、28日付)した海外実習調査の幕開け㊤㊦の共同執筆者の第1次南米実習調査団員の小宮山宏明(早稲田大)を小見山宏明と訂正します。

2018年10月4日付

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