―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑩

外務省資料に残っている大平官房長官から20万円寄贈のマル秘書類。
―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑩

~もう一つの学生運動~日本学生海外移住連盟外史

「顧問代議士」の大きな力を活用した歴代委員長
首相官邸にフリーパスで出入りした富田委員長

学移連の軌道修正目指し委員長に立候補

 富田博義は、彼が回顧したように、第1次南米学生実習調査団、同第2次団を送り出した学移連執行部に危機感を抱いていた。学移連は創設時から当時の先輩たちが積み重ねてきた外務省、日本海外協会連合会の信頼が岸信介首相の「南米事情講演会」とつながり、政治家、財界へと人脈を広げてきた。

 ところがその後2代続いた委員長の羽嶋、田中は、派遣団員として南米に行くためだけに固執し、派遣団員になりたい人たちが役員に名を連ねるというあまりにも利己的な運営形態の組織となっていたことを富田は危惧していた。派遣団員の配分を巡って、関東と関西の関係がぎくしゃくしていた。

 富田は、加盟校すべてに同じチャンスを与えるために派遣団選考委員会設置を打ち出し、関東、関西両地域の融和を図ることを考えた。その具体策が全国合宿の開催だった。富田は、持論を関西地域の主だった人達に話をし、協力を取り付けて第9期委員長に就任した。

関東、関西の融和目的で夏合宿開催
 富田は、委員長就任すると持論の関東、関西地域の関係修復に乗り出した。派遣団員数の配分に端を発し、移住研究などに関することでぎくしゃくしていた両地域の学生に呼びかけ全国合宿を開き、同じ釜の飯を食べることで融和を図ろうとした。派遣事業は目玉事業ではあるが、それよりも大学生本来の研究活動の重要性を認識し、全国組織としての信頼を取り戻そうと考えたのだ。

 顧問会会長の杉野の協力を得て、石川県の経営伝習農場で行われた。詳細はすでに前回に記載しているので省く。この合宿について海協連の機関紙「海外移住」(1962年8月15日付)は、「海外移住の本質探求―学生移住連盟合宿訓練の成果」のタイトルで大きく報じた。8月1日から4泊5日で行われた合宿には全国27大学から選ばれた56人が参加した。

 海外移住、海外事情、中南米事情、スペイン語、ポルトガル語に関心を持つ学生たちが海外移住、海外進出についての討議だけでなく、根本的な「人生観」「世界観」や「幸福論」という観点から話し合ったという。興味深いのは「1万5000円と3000円の幸福論」の議論をしたとある。日本で1万5000円の給料をもらっている技術者が3000円の給料しかもらえない南米へ移住するのは是か非かを討論したという。海外移住に求める「幸福」とは何かを話し合ったことになる。

 この合宿により、関東、関西の軋轢は解消され、以後毎年夏合宿が実施されるようになった。

最初は理解が難しかった派遣選考委員会

 派遣選考委員会については、富田は、「誰にも相談しなかったと思う。していれば、杉野先生だけだろう」と振り返る。結局、顧問会会長の杉野忠夫、外務省移住局の福田孝三郎業務課長、経団連の花村仁八郎事務局長、学移連OBとして葛西清忠そして富田が担当した。

 だが、この選考委員会を好ましく思っていなかった人たちもいた。選考委員会で選考を行っている会場に、南米学生親善使節調査団の団員山崎亮二が突然入ってきて口を出そうとしたので、富田は追い出したという。富田は、「私の後を継いだ武藤(崇、早稲田大)の代になったとき、学移連の理想がはまだ理解されず、先輩に邪魔され、先輩が勝手に派遣団員に入れてしまった人もいる」と語っている。

 学移連加盟校の中には先輩、後輩の序列を重んじる所も多く、派遣団員を押し込むことは難しくなかった時代だったともいえる。

 富田が選考委員会まで立ち上げ選考した第3次団団員だが、補欠として渡航した3人のうち、神奈川大の1人が「新学期が始まるまでに帰国しなければ卒業できない」と大学からの連絡で学移連本部にも同行の派遣団団長、サンパウロ総領事館にも無断で日本に帰国準備していたことが発覚し、外務省が問題視した。

 当然、学移連本部、第3次団でも重く受け止め、最終的にこの団員を除名処分にしている。

 選考の難しさを露呈したと言える事件だった。

岸首相の威光で代議士の力借り

 もう一つ、富田が力を注いだのが、政治家との親交だった。学移連は岸信介の「南米事情講演会」以降、政治家とのつながりが出来、特に岸派の政治家と懇意にしていた。このため、学移連には顧問代議士と呼ばれる「応援団」がいた。羽嶋、田中が委員長時代は、埼玉選出の山口六郎次代議士だった。移住関係は山口が担当していたことから岸から紹介されたようだ。富田も山口から当時、岸首相の官房長官だった大平正芳を紹介され、官房長官室や首相官邸をよく訪ねたという。そして、「首相官邸の守衛と顔なじみになり、フリーパスで入れるため、空き部屋に勝手に入っては電話を無料で使えることから関西支部の人達と連絡を取り合った」と富田は振り返る。

 また、第2次団の帰国船や第3次団のブラジル行きの大阪商船や大同海運へ無料で乗船できるようにするために官房長官の大平から直接電話をかけてもらった記憶があるという。当時は官僚は使わず、専ら代議士に頼っていたのだ。これは羽嶋の時代から一貫していたという。首相を退いても影響力のある岸の力といってもいいだろう。

 その後、顧問代議士の山口が入院したため、見舞いに行くことになった。富田は、松田潤治郎(拓大)を連れ、病室を訪れた時、山口は、「これからは田中龍夫に相談しろ。私の後継者だ」と紹介され、以後、田中代議士事務所に行くようになった。田中とは直接話をし、外務省への取次ぎを依頼している。「官庁に行かねばならないときに素手で行けば相手にされない。代議士が後ろに控えているということで会ってもらえる」とその事情を富田は説明する。

 外務省の文書の中にマル秘と手書きで書いた文書が残っている。1962年3月30日、富田が外務省の深見移住局長の案内で細谷官房副長官に会いに行っている。要件は、大平正芳官房長官から20万円を受け取りに行ったのだ。これは、第3次団の渡航費用の一部に充当するための費用だった。この文書では深見移住局長が富田を「案内」という形になっているのだが、富田に確認したのだが、富田に問い合わせたところ「覚えていない」との返事だった。

 しかし、外務省が内閣官房に繋いで、20万円の寄附を依頼したとは考えにくい。富田が代議士の田中龍夫を通して内閣官房長官に依頼したとみるべきだろう。外務省が学移連の派遣団について取り仕切っているので形式上、移住局長が同行したということに尽きる。それだけ、当時、富田が政治家と懇意で官僚を頭越しにして動くだけの力量を備えていたとみるべきだろう。

 なぜマル秘だったのか。外務省や総理府からの資金援助は公のものだったのだが、この官房長官からの20万円は、岸信介首相が南米学生親善使節調査団に出したと同じくポケットマネーだったからではないか。領収書がないため、公文書では残せず、マル秘書類にしたと推測される。

 富田の次の委員長だった武藤崇の時、予算20万円を獲得するため大蔵省主計局長に直談判に行ったことがある。大蔵省の外には加盟校に声をかけ数十人が徒党を組んでいたが、大蔵官僚は嫌な顔をしながらでも会わざるを得なかったのは田中龍夫の紹介があったからだと富田は断言する。

 当時の代議士は学移連に対して好意的に見てくれていた証拠だ。これは、岸元首相の威光があったに違いない。特に、田中龍夫は、武藤崇が委員長に就任直後、自宅に連盟役員を招き、クリスマスパーティーをしてくれたという。そして、富田博義にも、頼みもしないのに卒業後の心配までして、移住する為入社しなかったが、一流商社への就職の世話まで根回ししてくれた。

 富田にとっては半世紀以上も昔のなつかしい思い出として残っている。

 (敬称略、つづく、鈴)

補足説明=9月27日付第2章 飛躍期③「海外実習調査の幕開け㊤」の本文冒頭の部分で「学移連が閉鎖される直前のつごう35年間にわたり実習調査団が派遣継続された…」と記載した。この部分に関して「35年間の詳細を知りたい」との問い合わせがあったため、同実習調査団の内訳を記載する。

■59年「南米学生親善使節調査団」(4ヶ月間派遣)
■60年「第1次南米学生実習調査団」から69年「第10次団」まで
■1967年「第1次カナダ学生実習調査団」から69年「第3次団」まで
■70年 南米・カナダ・豪州・アフリカを含め名称を「第1次海外学生総合実習調査団」
■95年「第25次団」帰国、海外での1年間実習調査派遣活動は停止した。
なお、 各派遣先・延べ人数に付いては、後日改め掲載します。

2018年10月6日付

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