―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑪

―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑪
武藤委員長から外務省高木広一移住局長提出した全権を委任して松田団員を残留させた報告書

~もう一つの学生運動~日本学生海外移住連盟外史

派遣団員の身元引受先確保の為にブラジル残留
第3次団 松田潤治郎(拓大)

サンパウロ残留の課題

 連盟本部委員長から、現地に一年残れないかと私に指示があったのは、1963年3月だった。その頃、私たち第3次実習調査団は個々の実習を終え、研修旅行などから帰ってサンパウロに集合し、サンパウ移民収容所で合宿しながら、資料整理や報告書作成などの帰国前研修を行っていた。

 現地に残って何をするのか。学生の海外実習派遣事業が新たに補助金対象となったことにより、これを継続していくためにも現地での安定した受入れ母体を確立することが重要になってきたからである。

 また、現地で実習するには、観光ビザ(査証)ではなく、特別滞在ビザ(第8条査証)を取得していく必要があり、そのためには現地での身元引受保証人(オール・ギャランティ―レターを出せる人)を継続して確保していくことも課題であった。

 第3次団を含め、第1次団、第2次団等の身元引受人は、当時、サンパウロ日本商工会議所会頭の蜂谷専一であり、パラナ州バンデランテスの野村農場支配人であった牛草茂がなっており、海協連サンパウロ支部長の大沢大作にもお願いしていた。勿論、実際の実習先は農業、商業、工業、水産業等の企業、団体や農家であった。日本の学生の引受けに理解のあった蜂谷専一や牛草茂が自らも引受け、他にもあっせんしてくれていた。第3次団の引受けには、第3回海外日系人大会参加のため訪日していた蜂谷専一に、私が当時の富田博義委員長等役員に同行し、これまでのお礼と新たな引受けのお願いに行ったように思う。

 後で分かったことだが、第3次団のオール・ギャランティーレターが現地から届くのが遅れていた。5月下旬出航に間に合わすために、当時の移住振興株式会社社 二宮社長のパート・ギャランティーレターにより、在横浜ブラジル総領事面接が行われ、特別滞在ビザ(査証)を取得していたことを、最近になって外務省史料で知った。当時の連盟役員が外務省移住課に願い出て、関係機関から特別な便宜供与がなされていたことがうかがえる。予定通り6月1日に9名揃って大同海運の高花丸で出帆できた。われわれが現地について、実際の引受先のあっせんに動いてくれていたのは、当時の海協連サンパウロ支部職員だった原田孝夫だった。われわれの現地到着からコーディネーターのように、お世話いただいた。

 この高花丸には苦い思い出がある。第3次団の最初の9名が派遣団に決定して、出発便として丁度いい時期に、当時の大同海運(現、ジャパンライン)の高花丸が5月下旬横浜を出てブラジルに向かうことがわかった。

 早速、委員長の富田博義から私に大同海運に派遣団9名の乗船と、船賃の交渉をするよう指示された。私はまず、外務省移住課福田孝三郎業務課長に相談に行き、運輸省(現、国交省)不定期船課長を紹介してもらった。その不定期船課長は、私の頼みを聴くなりその場で、大同海運の不定期船部長に電話をしてくれた。電話で高花丸が5月下旬にブラジルへ向け出帆することを確認すると、電話を切らないまま、私に「ところで、船賃はいくら払えるのか」と訊いた。

 私は「3万から5万円」と返事すると、その課長は、電話を続け「5万円でどうか」と相手に話し、その場でOKとなった。その瞬間、私はしまったと思った。3万と言えば3万になった。実は事前に「3万円から5万円」と船賃交渉の金額の幅を申し渡されていたのを、そのまま言ってしまったのだった。学移連本部に戻り、富田委員長をはじめ役員みんなから、5万円でよくやったと喜んでもらったが、私には何か割り切れないものが残った。このことは、社会人になって交渉ごとをするときの、良い教訓となった。福田業務課長にお礼と報告に行ったときに、いい社会勉強になったねと、慰められたことを覚えている。

 私がブラジルに残留し第4次団がサンパウロに到着した頃、福田氏がサンパウロ総領事館の首席領事として着任され、再びお世話になったことを懐かしく思い出す。

身元引受と実習先交渉

 第3次団が帰国の途につき、それを見送った私は引き続き1カ月間、サンパウロ移民収容所外国人室に宿泊し、新たな実習先の海協連サンパウロ支部に通った。その7月には海協連サンパウロ支部は、移住振興会社と同じビルに移転した(日本では海外移住事業団が発足)。この3月下旬から8月下旬までに今後の学移連実習調査団の身元受け団体を決め、第4次団の引け受け先を決めなければならなかった。さらに第5次団の受け入れ先の交渉も行わなければならなかった。

 実際、実習希望の多い農業部門の引き受けあっせんを、サンパウロ商工会議所がするのには無理がある。また、農場経営の牛草茂に商業部門の企業や会社のあっせんを依頼するのもお門違いである。いずれにしても無理があり、継続性には不安が残った。また、医療福祉分野でのサンパウロ同仁会などの活動を知り、今後は医学部門などの実習も考えられた。そして、農家はもとより、多岐にわたる分野の企業、会社、団体等に日本から学生の実習をあっせんできる身元受けを探すことにした。 

 私は日本からの学生の実習先の身元受けには、多くの日系農家や各分野の企業や会社等を会員に持つサンパウロ日本文化協会が、すべての条件をクリア―しているように考えた。交渉を始める前にサンパウロ総領事館の移住担当の芳賀昭世領事に相談し、サンパウロ日本文化協会会長である山本喜誉司に紹介していただいた。

全権委任テレックス

 山本会長は日本の学生との交流事業としてお役に立てるなら、と継続して身元引受けになることを承諾され、個々の引受先のあっせんについても、藤井卓治事務局長に指示された。藤井事務局長も快く引き受けてくれた。しかし、実際の企業や会社、団体、農家等に話をつけてくれるのは、事務局職員の安立仙一であり、田村徹であった。すぐには動いてくれず、なかなか引き受けが決まらなかった。たびたび芳賀領事に泣きを入れ、藤井事務局長に電話してもらった。日本からきた一介の学生の頼みごと、としか理解されてなかったのか、時間だけが無駄に経過していた。

 かなり酷かったので、連盟本部委員長に、身元受けは文協会長山本喜誉司に承諾を得ているが、個々の引受先がなかなか決まらず、困っている旨の手紙を書いた。

 事業団サンパウロ支部に、重要案件にしか使わないというTELEXが、私宛に入電、武藤嵩委員長からで内容は短く「全権を委任する。学移連委員長 武藤嵩」とあった。

 早速、これを持って藤井事務局長に見せた。その後、足立、田村両職員もよく動いてくれるようになり、引受けに賛同してくれる農家や企業、団体等が増えるようになり、引受けも決まっていった。「これが見えないか」の水戸のご老公の印籠ではないが、「学移連全権委員」の肩書は効果絶大だった。委員長武藤や前委員長の富田は話が分かる。肩書が物言うという、世の中を知っているなあーと、私は感謝と敬意を忘れていない。

 これも後になって、外務省史料で知ったことで、私の認識不足でもあったが、山本喜誉司は個人で、第3次団の私を含め4名のオール・ギャランティーレターを発給していた。このことを知っていれば、わたしの方から「お礼」を申し上げ、その上で、第4次団以降の受け入れのお願いをしていれば、安立、田村、両職員の対応もちがっていて、もっと円滑に手続きが進んでいたのではないかと思う。
 
初の女性団員

 そんな折、連盟本部から手紙が届いた。内容は、今度の第4次団には、女性団員が選ばれた。学移連派遣事業始まって以来の事なので、慎重に、問題の起こらない引受け先を選ぶよう指示があった。選ばれた経緯も記載されていた。石川県の羽咋で学移連の合宿を行ったところ、一人だけ女性の参加があった。これも学移連の合宿では初めての出来事であるが、合宿参加募集の際、名前が福永 都(大阪府大)とあり名前からは女性とは気づかず、合宿当日、本人が現れて男性だけの合宿にすんなりと女性一名の参加となった次第。また、第4次派遣団選考試験でも、農業部門で合格し派遣団に選ばれたようだった。

 文協、事業団、総領事館と揃ってあるサンパウロ市内に近い、コチア産業組合本部であれば、何かあってもすぐ対応できるので安心と考えた私は、直接、井上ゼルバジオ忠志組合長にお願いした。快く引き受けの返事をいただき、移民課での実習が内定した。移民課というのは、組合員やコチア青年等の生活相談、花嫁相談や営農融資等の相談窓口なっており,海協連サンパウロ支部とも関係が深かった。

 福永都が無事実習を終え帰国したので、それ以降の学移連実習調査団派遣事業に女性の参加が継続されていき、まさに草分けとなった。

船賃交渉と恩義

 第4次団が到着した頃、サンパウロ総領事館に首席領事として福田孝三郎が着任された。外務省移住課首席事務官時代には、学移連役員は何かと相談に行き、いろいろご指導いただいていた。

 1963年7月、文協会長の山本喜誉司が亡くなられた。翌8月には中尾熊喜が会長に就任された。第5次団の身元引受手続は中尾熊喜で行うことになった。第5次団の身元引受保証書(オールギャランテイーレター)には、中尾熊喜の個人財産・資産等が記載され、それによって、日本からの学生実習調査団全員の渡航費と、現地滞在費等を保証する旨書かれていることを改めて知った。実習調査団の身元請け人には、それ相応の財産や資産のある人物でなければならないことも知った。

 当時を振り返って、我々学生が直接、外務省移住課や在外公館等にいろいろ相談やお願いにうかがい、関係機関等への便宜供与等をお願いしていた。

 このことだけでも恐れ多いことであるが、驚いたことに、その稟議書や報告等の回覧書類等が、かなりの量で外務省外交史料館に保管されていたことである。

(敬称略、続く)

2018年10月9日付

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