―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑮

―移住に賭けた我らが世界―第2章 飛躍期⑮
最も早く支部を設立した関西支部は、学移連機関誌「学生移住連盟」誌にも頻繁に寄稿していた(1964年12月号に当時の関西支部長・南部隆司が寄稿している)

もう一つの学生運動 日本学生海外移住連盟外史

杉野顧問会会長の死去で求心力が低下
内部で「移住研究」「海外事情研究」の二分化に対応

 学移連は、これまでみてきたように実習調査団は回を重ねるごとに充実し、当初ブラジルだけだった派遣先も南米各国に広がり、海外移住事業団の政策と相まって安定したかのように見えた。

 ところが、連盟員の精神的支柱だった顧問会会長で東京農大拓殖学科長だった杉野忠夫教授が1965年6月に死去した。

 当時、「しごき」という言葉が毎日のように新聞の活字で躍った東京農大ワンゲル事件は新学期を迎えた直後に発生した。杉野教授は学科長・教授会メンバーとして深夜にまで及ぶこともあった連日の教授会で疲労、体調を崩し入院、そのまま心不全で亡くなった。青山葬儀場で行われた葬儀での当時の第11期委員長・片山猛(中央大)の弔辞は、杉野教授の青少年に対する卓越した指導力と東大新人会時代に育まれた財界とのコネクションによって学移連という組織が成長してきた経緯を語り、それを失ったことによる衝撃を哀悼の言葉で綴ったものであった。

 この杉野教授の死去は、学移連のその後の混迷を暗示させるものだった。

 海外移住ということで一本化していた学移連も、移住以外に中南米、海外研究会などの組織の連合体であり、各大学のクラブ、研究活動の方向性は異質なものを包含していた。そこに海外渡航の自由化によって、個人で観光ビザを取得して南米に出かける連盟員も出始め、学移連の「実習調査団」への応募も減少し始めた。

打開策は「移住研究」「海外研究」のブロック化

 このような状況の打開策として65年12月の全国総会で第12期委員長に就任した宇野捷司(早稲田大)は組織を二分化するA、Bブロック構想を提案した。宇野は当時を回想して、「移住研究に重きを置かない大学から連盟脱退の声が大きくなってきて、組織維持のためにAを移住研究、Bを中南米や海外研究を主体とするクラブに分け、それぞれの自主性を重んじようとした」と述べている。

 新執行部の基本方針として、前年設立された関東支部(註1)で試行的に行われていたブロック化を全国規模で行うとし、その中で「一体、本連盟は何故に存在しうるのか今こそ明確に打ち出すべきである」と述べている。そして翌春に行った加盟大学へのアンケート調査では、AとBがほぼ半数ずつとなった。

 当時の加盟校は47校。アンケート調査でブロック化に賛成したのは24校、反対2校で残りは無回答だった。

 問題はブロック化した後に、移住研究グループと海外研究グループが勝手な方向に進んでしまわないかということで、その両グループを結ぶ「学移連の理念とは何か」ということ議論が以降盛んに行われた。早稲田移住研で宇野の一年下の岡本健一は当時を回想して、「先ずはやってみようということで設立されて10年、派遣団も7次を数えていたが、それぞれがその意義を問うことなく時間だけが経過してきた感があった。ブロック化についても、先ずはやってみようということでは先行きは覚束なかった」と述べている。つまり、宇野も岡本も翳りが見えてきた「海外移住の旗」の求心力に対して原点に戻っての議論の必要性を組織に求めたのであったが、そこには「本部委員長の任期は一年」という壁があった。これは3年次に委員長となり、4年次は海外渡航、または就職活動という学生ならではの就任条件があった。そのために誰が就任しても「継続する、普遍性のある」学移連理念が求められたのであった。

 宇野もそのことについて「我々の海外発展思想は世界のグローバリゼーションと軌を一つにしていたが、大学生には年数制限があり知的遊戯となってしまう懸念があった」と述べている。

 ともかく、66年夏の山梨県清里の全国合宿でゼミナールと称して、初めてA、Bそれぞれのブロックの分科会が開催された。Aブロックについては「杉野理論」といわれた、杉野忠夫教授の「海外拓殖の理論と教育」という実践的立場から書かれた書物があり、教授の講義を実際に受講した学生も多かったので、その輪読会的な運営でも可能であった。問題は地域研究を主体とするBブロックであった。その時は慶応大学ラテンアメリカ研究会が担当校となり、松井清著「後進国開発理論の研究」を参照しながら、植民地から独立したアジアの事例などを紹介したが、その総会で委員長が交替、宇野の危惧通りにゼミナールとして継続されることはなかった。

 ただ、この合宿でのゼミナール開催や総会での慶応大学や京都大学からの本部役員選出などは、片山、宇野委員長の海外移住一本から多様性のあるクラブの連合体へという転換路線の嚆矢ともいえる出来事であった。(敬称略、つづく、鈴)

註1=学移連の支部としていち早く結成されたのは関西支部で設立は57年だった。その他の地域はそれぞれの地域でまとまっていたものの支部組織を作ってはいなかった。64年6月に開かれた全国総会で関東、東北、九州支部が結成された。各サークルの連帯意識醸成に役立ち、学移連の理念確立のためのブロック化に貢献したといえるだろう。

2018年11月22日付

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