―移住に賭けた我らが世界―第3章 転換期②

―移住に賭けた我らが世界―第3章 転換期②
杉野を東京農大に招いた千葉三郎の銅像(中央)と記念館(後ろの建物)が、千葉県茂原市の千葉の生家そばにある。

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟外史

学移連の精神的支柱だった杉野忠夫 ㊥
千葉三郎に請われて東京農大農業拓殖学科長に

◆植民学から決別し新たな農業拓殖学へ

 杉野忠夫は、 京都帝国大学助教授時代の1935年、「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」を代表執筆し、40年に満州国開拓総局参与に就任している。戦前戦中は日本の植民地政策、植民教育に携わっていた。戦争末期の44年には郷里の石川県の石川県修練場長(戦後の石川県経営伝習農場)となり、53年には高知大学農学部非常勤講師を委嘱されていた。

 ところが、55年、当時、東京農大の学長だった千葉三郎(後に衆議院議員となり労働大臣などを歴任)に呼び出され、翌年同大学に新設される農業拓殖学科の専任教授に招へいされた。東京農大は戦前にも専門部に農業拓殖学科が設置され、海外で拓殖事業に携わる人材の養成を行っていた。しかし、いわゆる植民教育だったため、戦後廃止され、サンフランシスコ講和条約締結後、日本の海外拓殖が認められたという経緯がある。この時代の流れの中で千葉は、他の大学では見向きをしない農業拓殖学科を立ち上げようとしていたのだ。そして、杉野に白羽の矢が立った。杉野は後に「海外拓殖の理論と教育」を執筆した。その巻頭には「この小著を千葉三郎先生に捧ぐ」としたためてあり、千葉に招へいされたことに対する感謝の気持ちと自らの実績を披歴した。緒言の中に「(千葉学長の懇請に)私は種々熟慮の末、成敗利鈍(事が成功するか失敗するか、手際が上手か下手か)を省みることなくこれを受諾した」と記している。

 そして、翌56年、東京農大学教授・初代農業拓殖学科長に就任した。杉野は「海外拓殖の理論と教育」の緒言に次のように書いている。「『農業拓殖学』が科学として認められるためにはその学問論を必要とすること、そのためには前時代の植民学との比較を試み、植民概念と農業拓殖概念との異なる点を明らかにした。すなわち前者は国家の勢力範囲―本国以外―にその国民が移住して母国の政治的、経済的に、社会的諸勢力を布植する活動を中心とする概念であるが、後者は掛かる国家的勢力の伸長を目的とする活動の概念ではなく、広く全人類とその地域の住民の幸福のために国際協力によって未開発地帯及び低利用地帯の開発を行う活動を中心とすることを提唱した。そしてこの新しい科学の性格、基礎的諸学科の範囲、目的及びその原理的部分の地位を論じ、当面の課題、構造を追求し、研究方法と教育方法を論じたものである」―。

 杉野は、教育方法の中で「この学科(農業拓殖学科)の使命は、単に新しい学問を教え、戦前の植民理論と訣別して新時代に適応できる理論を教授するというだけではなく、全世界のいかなる地域にも喜んでむかえられる農業拓殖人の養成と、また喜んで飛び込んでいく実行力に富んだ学生の養成という課題が課せられていたからである。このような実践者の養成とは、単なる技術を附与することではない。歴史的社会的現実と真正面から取り組んで、歴史を創造する人間を形成することにほかならない」と喝破した。

◆第1次実習調査団の生みの親

 杉野が学移連と深くかかわったきっかけは、葛西清忠が行った「南米学生親善使節団」をヒントに第6期委員長の羽嶋禎紀(早稲田大)が企画した第1次南米学生実習調査団(註1)に遡る。当時、杉野は東京農大移住研の顧問だった。杉野は、東京農大の学生を対象に、単なる調査や見学ではなく実習を通して実態を学ぶことの重要性を重視し、実習調査主体の派遣団の計画を立案していた。それを知った羽嶋は、杉野を訪ね、この派遣方式を学移連にも使わせてほしいと申し入れを行ったのだ。杉野は、「学移連が実習を通して実態を学ぼうという言う派遣方式を取るのであれば、喜んで農大の計画を合流させよう」と快諾した。そればかりではない。実習先など相手側との交渉も引き受けた。ちょうど、ブラジルから来日中だった旧知の野村農場の牛草茂総支配人と話をし、羽嶋を紹介した。牛草も引き受けを快諾し、農業部門だけでなく、商業、工業分での実習先紹介も引き受けてくれた。

 とんとん拍子に話は進んだものの、資金集めで頓挫した。羽嶋は(社)経済団体連合会に資金協力を求めたのだが、経団連は難色を示した。理由は、学生組織は毎年のように責任者が入れ替わり、責任の所在がはっきりしないため、資金援助には応じがたい、と断られてしまったのだ。羽嶋は、再び杉野を訪ね事情を説明。「学移連の対外的、特に財界、政界に対する責任者になってもらえないだろうか」と要請した。実習調査団の生みの親でもある杉野は二つ返事で引き受けた。羽嶋とともに経団連を訪れた杉野は、対応に出た事務局次長の花村仁八郎に「私が代表者として立つことによって信用していただけないか。責任を持って学移連の育成にあたるつもりだ」と説明した。花村は、大学が杉野の後輩だったこともあり、「あなたが責任を持っていただけるなら、私の方も責任を持って資金集めに協力しましょう」と約束してくれ、経団連のみならず経済5団体が協力してくれることが決まった。以後、花村はこの約束を守り20年近くにわたり学移連を支援してくれた。

 杉野は大学の教授という肩書だけで学生の教育にかかわっただけではなく、学生に寄り添い、夢をかなえる救世主的な存在だったといえる。(敬称略、続く、鈴)

 註1=実習とは、「開拓精神の鍛練を目標とする鍛錬実習であって二つのF、即ちfrontier spiritとfighting spiritの鍛錬である」と、杉野は説いている。

2018年12月5日付け

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