―移住に賭けた我らが世界―第3章 転換期⑧

―移住に賭けた我らが世界―第3章 転換期⑧
工場実習東山電線工場にて、パウロとともに

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟外史

異色の工学院大から初の委員長に ㊤
第21期委員長 駒井明(工学院大)

◆移住研創設から

 工学院大学海外工業技術移住研究部は、略称を何と呼ぶか、当初から「移住研」それとも「海工研」と意見が分かれていた。1962年日本学生海外移住連盟(学移連)に加盟、その頃から海外移住のピークは下降線を描き始めていた。

 一方当時海外移住の背景は、ドミニカ移住事業など農業移住への問題点も大きく取り上げられるようになり、反して技術移住への関心は高まって行ったが、農業系大学が主流を占める学移連に於いては、「技術移住」を標榜していた我が移住研は、工業単科大学として少数派で異色の存在であった。また、クラブ名称からも移住思考の仲間たちだけでは無かった。そもそも工学院は、富国強兵の明治期中堅技術者を養成する目的で、1887年設立された「工手学校」(註1)が母体である。

◆第3次海外学生総合実習調査団として渡伯

 1972年5月の出発を目指し日々心身の鍛錬していた。鍛錬と言っても、専ら酒を酌み交わし大風呂敷の集まりだったようにも思える。

 第3次海外学生総合実習調査団は、南米班・カナダ班・アフリカ班各13大学13人が統一テーマを設け出発までに以下の内容を揃えた。これは、帰国後派遣報告書として纏め学移連本部として発刊していた。

 1派遣趣旨 2派遣目的 3派遣形態 4調査項目 5日程概要 の項目を煮詰めるため、派遣団選考後数度の合宿を重ねる間に団員同士親交を深めるが、その仲間に、家庭の事情、一年間休学して見知らぬ土地へ行く恐怖心、己の精神的な未熟さから辞退する者が出てきてきた。結局、数名減り13人、其れを一つの目的に揃える難しさに、岡誠治団長(北大)は、大変な思いをして居たのだろうと今思い出す。私など誇れる何ものもない、有るのはヤケパッチ行けばどうにかなると「Work Before Study」を勝手に解釈し、72年5月12日前年まで移住船での往復路であったが、この年から派遣団は新しい時代の流れから全員飛行機で飛立つはずだった。しかし、ブラジル班4人は、領事館よりビザが発給されず何時出発出来るのか皆目目途が立たなくなってしまった。

 丁度この頃「世界同時革命」を夢見た過激派学生の凄絶な一連の事件として、連合赤軍による71~72年末を挟み衝撃を与えた仲間リンチ殺人の「永田洋子等の山岳ベース事件」、テレビで実況中継され人質と立て籠った「あさま山荘事件」が、たて続けに起こった。ブラジル総領事館は、ビザ発給を渋り始めた決定打として、同年5月乗降客26人を殺害した「テルアビブ空港乱射事件」が原因と言われている。いよいよ学生に対する世間の厳しい視線が浴びせられ始めた時期だった。

 余談だが、ブラジル派遣団帰国後やっと卒業、就職した会社から、サウジアラビアのリファイナリー(註2)建設要員として赴任した折、地続きのイスラエル獄舎に乱射事件の岡本公三が繋がれていると思うと感慨深げになったことを思い出す。

◆ブラジルへ旅立ち

 大学は休学届提出状態で成す事も無く無為に時間だけが過ぎ去っていき、益々自信のなさと将来の不安が押し寄せて来た。本を読みポルトガル語を学ぶ良い機会にも拘わらず落ち着かない日々が流れていた。

 そんな中、同年6月9日突然出発が決まった。4人中3人のみで出発、1人は結局相当遅れパラグアイのビザで1年間の実習予定を2年間に変更した。このビザ発給の顛末に対して正式説明は未だに聞かされていない。

 カナディアン・パシフィック航空(CPエアー)DC―8 422便、アンカレッジ経由一路バンクーバーで給油後メキシコシティに向け飛び立つ、アメリカの穀倉地帯上空を抜けメキシコシティからアカプルコ経由リマに到着ブラニフ・インターナショナルエアーに乗り換えサンパウロ郊外のビラコッポス空港に降り立った。

 驚いた事に、空港で先ず出迎えてくれたのが「自動小銃を構えた兵士」であった。銃口で指示され個室に連れて行かれた。情けない事に余りにもの恐ろしさで震え上がってしまい。この一連の出来事の記憶が飛んでいるのだが後に派遣団仲間から聞かされた。

 サンパウロの日本総領事館・ブラジル日本文化協会・日系新聞3社を廻り一連の手続きを終え、実習開始の説明によると「工場の立ち上がりは未だ2カ月かかる。先に視察でアマゾン方面を廻って来なさい」と言われ、バスターミナルで毛布1枚リュックに括り付け、全土ガイドブックの「GUIA」を購入。腹巻に現金を忍ばせ長距離バスを乗り継いで大西洋岸を北上した。

 2カ月間かけて行く先々で現地の方々に大変お世話になりながらポルトガル語も少し判る様になり無事サンパウロに戻ってきた。この旅行の最中アマゾン河口ベレンまで数日の処で、偶然にマイクロウェーブ建設中の現地女性と暮らす初老の日本人技術者に会い「日本列島改造論の田中角栄が首相になった」と聞かされた。

◆電線工場実習

 実習先は、カンピーナス市郊外東山農場の農機格納庫に仮工場を間借り、何本かの銅線をより合わせ被覆する特殊電線製造だった。

 電線会社は、紆余曲折を経て現在はアメリカ資本に売却されたと聞く。当時の名称Monte D’este Ind俍tria e Com駻cio de Materiais El騁ricos Ltda名前が長いのは営業品目すべてを上げなければならないと聞いていた。後年、再訪した折、役員であった学移連OBから「君達を再度呼べるような会社にしたかった」と言われ、素直に嬉しさと同時に矜持ある言葉と感銘した。

 実習調査も終わり、南米班先発3人とペルーのリマで計6人が合流、安ペンションに5日間ほど滞在、お互いの報告を見せ合い、書き足し報告書を仕上げ、CPエアー421便へと乗り込んだ。機内の通路にワニの剥製やら弓矢などの土産を置き、カナダ班5人が乗り込んでくるバンクーバーへと向かった。1年振りの対面だが、彼らはスマートな都会人の様だった。お互い話が山ほどあるだろうに暫くぎこちない照れ顔で座席に付いた。

 73年4月7日列島改造の羽田空港に降りたった。再会を約して、夫々の大学に戻り以前と変わらぬ日常を過ごし始めた。足らない履修単位をかき集め、その時は、皆と同じように何とか卒業するものだと思っていた。(つづく)

 註1=工手学校とは「明治20年(1887)即戦力となるエンジニアを養成する教育機関、私立学校のパイオニアとして明治期日本の工業立国を支える大きな役割を担った」と、中央公論新社2007年「工手学校 旧幕臣たちの技術者教育」茅原 健著に詳しい。

 註2=本プロジェクトは、サウジアラビア資本のペトロミンとモービル石油の輸出専門合併製油所を、紅海側に建設、当時最新の技術を集めたと言われ、メーンコントラクターが当時2千億円で受注し、塗装部門サブコンのショップコートマネジャーとして2年間赴任していた。当時1バレル30ドルを超えると産油国は石油プラント建設を盛んに行った。塗装工事は、受注額の1%と言われ現地にテンポラリカンパニーを作り20億円で受注し社運を賭けていた。

2018年12月13付け

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