―移住に賭けた我らが世界―第4章 終末期①

―移住に賭けた我らが世界―第4章 終末期①
「海外移住展」の宣伝に都内の繁華街を練り歩いた連盟員(中央が永代委員長)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟外史

「海外移住を核に」を掲げ委員長選挙に立候補
委員長に当選したが反動で拓大と九州支部3校が脱退

衰退した学移連を守り抜く
第24期委員長 永代 成日出(東京農大)

◆ターニングポイントとなった委員長選挙

 私は、1976年8月の夏季全国合宿時(大分県耶馬渓町)の総会で第24期委員長に選出された。今振り返るとその委員長選挙が学移連にとっての大きなターニングポイントだったと感じる。合宿の中で今後の学移連の方向性の議論が行われた。移住者の減少、日本企業の海外進出、国際協力等社会環境が大きく変化しており、学移連加盟校の活動のあり様も多岐に及んできた。一体この学移連は、どのような組織であり、今後どの方向で進んでいくのかということが議論された。そして、A案:原点に返り「あくまでも移住を志向する」学生組織とする。B案:時代の変化に合わせ「移住に限らず、海外雄飛、国際協力」等広く海外研究、国際交流を志向する学生組織とする、の2案が示され、委員長選挙になった。

 その委員長選挙には二人が立候補した。私ともう一人は拓殖大学移住研究会の3年生であった。立候補演説会が行われ、私はA案の「海外移住を核に集う学移連」、相手はB案の「海外研究、国際協力を核に集う学移連」をそれぞれ主張した。

 その合宿には学移連顧問の日大後藤連一教授も参加されていた。演説会の前、後藤先生は、「永代君、学移連は移住で始まったのだから、終わる時も移住で終わろう」と語られた。その当時の学移連で海外移住を志向していたのは東京農大海外移住研究部と日大海外研究部の一部で、ほとんどの加盟校は既に海外研究や国際協力を志向する人たちの集まりとなっていた。よって「移住」を主張すると多くの大学が脱退することは容易に予想された。

 その当時私は、学移連の一番の魅力は普通の大学生ではなかなか経験できない他大学学生との交流にあり、移住、研究、国際協力を問わずに「海外」という共通項で集う場であっても良いと思っていた。しかし後藤先生の言葉は、そのような私の想いを完全に吹き飛ばした。「その通りだ、学移連は移住に始まり移住で終わる」のが最良な道だとの意を強くした。委員長選挙(投票は一校一票)が行われた。選挙の結果、私は「海外移住を核に」を主張したにも拘わらず、なぜか委員長に選出された。海外移住を志向している大学が完全に少数派となっていたのになぜ選出されたのかは、未だに疑問である。

 その選挙終了後、総会の場で拓殖大学と九州支部加盟校(鹿児島大学、熊本商科大学、北九州大学)が脱退を表明した。この合宿に参加していた第6次総合実習調査団で帰国したばかりの鹿児島大学の高原要次は「この決定を受けて、九州の各大学は『とても移住では集約できない』として学移連を去らざるを得なかった。当時九州での加盟校は、移住を志す部員はほぼ皆無と言ってよかったからだ」と回顧している。

 その当時、加盟校は数の上ではまだ10数校だったが、個人参加的な大学もあり、部・サークルとして学移連に参加している大学は既に一桁となっていた。よってその脱退の結果、学移連に留まったのは、実質上、東京農大、日大、玉川大学の3校だけになってしまったと記憶している。

◆学移連を守り抜くための多忙な日々

 第24期の本部役員は、東京農大から2人、日大から2人、玉川大学から1人の計5人で構成された。本部事務所は曙橋のアジア経済研究所の1階にあった。加盟員を少しでも増やすため、「個人加盟」の促進を図った。読売新聞に数回、「日本学生移住連盟個人加盟募集中」の記事を連載して頂いた。その結果、東京農工大、中央大、日本女子大などの学生が加盟することとなった。

 加盟校が数校になってしまったが学移連の伝統を守るべく、総合実習調査団の派遣(南米など)、企業からの賛助金集め、実習調査団報告書の印刷製本、全国合宿、実習調査団の合宿、各種啓発活動などは従来通りに実施した。問題だったのは実働人数の少なさである。関東支部も既になくなっており、学移連運営に従事できるのは役員5人のみだった。その人数で従来と同じ活動を行うのは、相当な負担となった。大学の授業には午前中だけ顔を出し、午後からは曙橋の本部事務所に行き暗くなるまで活動を行う日々が続いた。委員長に就任したのが大学3年の9月から4年の8月までと専門課程の一番重要な期間だったが、過半数以上の授業には出席できず試験だけを受けて何とか単位を取ったような状態だった。そのためか卒業後既に40数年も経ったのに未だに単位が取れずに卒業できない夢にうなされることがある。また学移連活動に没頭するあまり、4年生になっても卒業後のことは全く頭になく、8月末に本部役員を辞めた時には就職活動のピークは既に過ぎてしまっていた。慌てて農大の先輩が勤めている会社に応募し何とか拾ってもらった。応募した会社がその一社のみの全くの綱渡り状態で、今振り返ると本当に冷や汗ものである。

 役員活動で強く印象に残っているのは、企業からの賛助金集めである。経団連からの推薦状と実習調査団報告書などを持って、百社を超える企業を役員で手分けして回った。書類の準備とアポイントメント取りなどの準備にかなりの時間を費やしつつ企業回りをした。学生にとっては相当な負担ではあったが、役員一同の「学移連を守り抜こう」「継承して行こう」という気持ちは非常に強く、都内を奔走した。

◆東急プラザで海外移住展を開催

 77年6月に東京渋谷駅前の東急プラザで「海外移住展」を開催した。この場所を選んだのは、当時、役員を務めていた東京農大、日大の学生にとって渋谷は大学からも近く馴染みのある街だった。そのため、東急プラザにイベントホールがあることは知っていたし、東急プラザが相当な集客力のある店だということも分かっていた。 本部役員間で話し合い、移住展をやるのなら集客力がある、目立つところでやろうということで東急プラザに決めた経緯がある。

 その宣伝のために、東京農大海外移住研究部と日大海外研究部のほぼ全員が男女を問わず顔も体も黒く塗り、土人の格好で農大名物の大根踊りもしながら渋谷の街を練り歩いた。「良い宣伝になるように目立つことをしよう」という発案で始まったが、その行為は女性には非常に不評で、東京農大移住研究部の女性部員の一人は「こんな野蛮な部とは思わなかった」と言って退部してしまった。

 東急プラザの建物には、「海外移住展:日本学生海外移住連盟」と書かれた目立つ大きな垂れ幕を下げた。移住展では、戦後の日本人の移住の歴史、移住の意義、学移連の歴史と活動をパネルで紹介すると共に移住相談コーナーを設けた。キャンペーンと垂れ幕の効果および物珍しさが手伝ってか、かなりの入場者数となった。連盟員がローテンションを組み、展示パネルの説明係りと相談員役を務めた。今振り返るとその移住展は、弱体化した学移連を自ら鼓舞させる目的と我々の活動が一般社会ではどのように評価されるのかを知りたいという気持ちから開催したように思える。

◆最後に

 学移連設立時と比べると1970年代後半の日本社会は高度経済成長期を経て大きく変化しており、一般的な若者は「海外移住」という言葉を聞く機会もなく、「海外移住者の存在」さえ知らない時代となっていた。そのような中、学移連を守り抜く活動は孤軍奮闘的な色彩が強かったが、大きな支えとなったのが、第6次総合実習調査団(1976年5月~77年3月)の一員としてブラジル滞在中にお会いした学移連OBをはじめとした移住者の方々の「移住は文化の伝播なり」を体現されている活躍の姿であった。(敬称略、つづく)

2018年12月19付け

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