―移住に賭けた我らが世界―第4章 終末期③

―移住に賭けた我らが世界―第4章 終末期③
津川先生(右から2人目)と最後の第25次実習調査団の4人、仲島尚団長、岩崎行大、今井詠理路、津川安正先生、奥原正志(左から)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟外史

42年の歴史の幕引き
第48期書記局長 仲島 尚(獨協大)

 最後の委員長という立場で1990年代の学移連の活動についてお伝えしたいと思います。

 わたしが学移連に参加した90年代は、学移連の活動をしている人間は常時6人程度だったと記憶しております。派遣団が帰国後に後進派遣団員の世話をするというのが活動の中心になっていました。私が派遣団員として94年から1年間ブラジルに行ったあとは、後続の派遣団員もなく、学生の卒業とともに人員を減らしました。

◆90年代の行事

 新年には顧問会長の津川安正先生のお宅に新年のご挨拶に伺うのが恒例でした。一升瓶で持っていき、奥様にご用意いただいた食事とともに、学移連のあり方について相談させてもらっていました。津川先生は礼儀作法やレポートの書式などに大変厳しかったという伝説があったのですが、私達の時代にはそのことが信じられないほど、柔和な語りと佇まいをされていました。

 4月には、外務省、JICA、日系人協会、海外協会、サンパウロ新聞東京支社などに新年度の挨拶に行っていました。

 夏には代々木のオリンピックセンターで合宿を行いました。関西遊説という行事は夏休みに行われました。92年から3年ほど、伊波俊之助さん(奈良産業大学)が関西支部を立ち上げ活動されていて、帰国した派遣団が出向いて話をするというものでした。

 12月にはブラジルからの県費留学生が日系人協会の行事で集まる際に、東京外国語大学のラテンアメリカ音楽サークルに演奏を依頼して、サンバパーティーを行っていました。

 なお、三重の日本フロンティアセンターでの合宿が、47期委員長の荒井雄一さん(東京農大)の代まであったことを聞いています。

◆90年代の活動

 派遣団の選考と送り出し作業が活動の中心でしたが、それ以外の普段の活動について述べると、まず、連盟室だった市ヶ谷ホワイトレヂデンス10階での定例のミーティングがありました。行事と派遣業務に関する準備を行う程度です。時をみて勉強会と称して、経済学、社会学、人類学的なテーマを持ち寄って議論する会なども行いましたが、過去の学移連の事業や諸先生方の思想に当たることはほとんどありませんでした。

 クラブ単位での参加はなくなっていましたが、日大海外研究部と農大移住研究部からは、連盟の行事に個人参加するものがいました。

 機関誌「我らが世界」では派遣団の調査報告を行ったほか、プラッサという会報誌を作っていました。

◆90年代の派遣活動と資金 活動費は顧問会長津川氏の寄付金

 吉村純さん(東京農大)、横山康一さん(日大)の二人がブラジルに行ったあと、つまり、団体の活動が途切れたあとは、派遣団員が帰国後に、後進の派遣希望者の世話をする形で連盟員が構成されていました。

 連盟の本部である市ヶ谷ホワイトレヂデンスの一室はJICA移住事業部が借り上げている場所で、学移連が月13万円ほどの家賃を払って使わせて貰う形になっていました。その資金は、顧問の津川先生が投資信託の運用益を学移連の活動基金として寄付してくださっていた中から充当していました。

 毎年4人の派遣団員を選考していました。自己負担金20万円で南米に1年間渡航できる手段として当時の学生には魅力的な留学手段として考えられていました。93年まではJICAによる派遣活動の資金援助がありましたが、94年に打ち切りになると、派遣事業は継続できなくなりました。私が行った最後の派遣団となる第25次海外総合実習調査団は、顧問の津川先生がご自身の基金から渡航費用を援助してくださいました。

◆90年代後半と連盟の最後  学移連解散は97年が妥当

 私が団長として渡伯したのは94年のことでした。私の代が最後となり派遣団の歴史は潰えました。また、94年1月JICA移住事業再編に伴い助成金停止や本部事務所返却が決まりましたが、1997年、学移連の公式記述はありませんが、本部に使用していた市ヶ谷ホワイトレジデンスをJICAに返却したので、この年を解散年とすべきだと思います。(つづく)

2018年12月21日付

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