「ブラジル桜花会」いまだ消えず② 特別寄稿 脇田 勅

旧海軍出身者が一堂に集合

 今から約半世紀前の1965年11月初旬、当時のパウリスタ新聞の記者が、コチア産業組合の信用局長室に突然、私を訪ねてきました。

 「脇田さん、パウリスタ新聞でこの度バテパップ欄を設けましたので、随筆を書いてください」

 「そういうことを私に直接言われても困ります。理事会の方に話してください」

 「いや、理事会の方にお願いに行きましたところ、そうした話は信用局長の脇田にしてくれ、と言われました」という返事です。

 「それでは書きましょう」と言って数回、随筆を書きました。その中の一篇に、私が予科練(海軍飛行予科練習生)で訓練を受けたことを書いた「少年時代の夢」というタイトルの随筆が、同年11月23日にパウリスタ新聞のバテパップ欄に掲載されました。

 それから2日経った25日に牧田実氏が、「私も予科練に行きました」と連絡に来て、その翌日、もう一人が「私も予科練で訓練を受けました」と話しに来ました。

 それで、この3人で「予科練の仲間を探してみよう」と話し合ったのです。そのうちに私に電話してくる人もいて、仲間が10人近くになりました。それで、8人がレストランに集まって、各自の出身航空隊や甲13期、14期、15期と乙飛などが分かりました。そして、もっと予科練がいるはずだから、「ブラジル予科練会」をつくろうという話になりました。

 この集まりのことをサンパウロ新聞記者に話したところ、「伯国に集う七ツボタン」という見出しで、「近く予科練会結成」のサブタイトルが付いた記事が掲載されました。1965年12月4日の新聞です。

 この記事が出たことで、また会員が増え、「ブラジル予科練会」の名簿を作った時には18人になりました。12月8日の太平洋戦争開戦日や5月27日の昔の海軍記念日などにレストランに集まって、懐旧談に花を咲かせていました。軍律厳しい中で血の出るような訓練の明け暮れの生活をした原体験を共有する仲間の集まりは、楽しいものでした。

 この予科練会の集まりの記事が新聞に出るようになってから、予科練以外の海軍兵学校出身者、海軍予備学生出身者、さらには徴兵で海軍に入った人などから入会の申し込みが来るようになりました。それで、旧海軍にいた人なら誰でも入会できるように「ブラジル予科練会」を発展的に解消して、「ブラジル桜花会」と改称しました。

 1968年9月20日午後、サンパウロ市ジャバクアラ区にあった料亭「青柳」で、ブラジル桜花会主催の源田実参議院議員の歓迎会をしました。この席には、当時ブラジル連邦下院議員だった平田進氏、在サンパウロ総領事館の近藤総領事も参加されました。

 源田参議は周知のように、12月8日のハワイ真珠湾の奇襲部隊である第1航空艦隊(機動部隊)の航空参謀で、この真珠湾攻撃の作戦を立てた人です。また、かつては「源田サーカス」と言われた戦闘機のパイロットでもあります。終戦時は四国・松山の「三四三航空隊」、通称「剣部隊」の司令で海軍大佐。この「三四三空」はベテランの戦闘機隊で、使用機はすべて最新鋭の「紫電改」で戦果をあげて勇名をはせた部隊です。

 戦後は海上自衛隊に入り、トップの海上幕僚長、統合幕僚会議議長などを歴任して退職し、全国区から参議院議員になりました。

 源田参議は、まさか地球の反対側のブラジルに予科練生がいるとは思わなかったと驚いていました。私はこの人の鋭く光る目が、強く印象に残っています。(つづく)

2016年10月15日付

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