「ブラジル桜花会」いまだ消えず(終) 特別寄稿  脇田 勅

深まる海軍への懐かしい郷愁 

  

 1986年5月24日、北米ロサンゼルス「同期の桜会」(会員27人)の代表4人が、サンパウロに着きました。3人が甲種予科練の13期で、1人が14期です。この中の吉本健一郎氏が、ブラジル桜花会の松酒昌平氏と四国・松山海軍航空隊で甲種予科練の13期で同期の桜であることが判明して、ロサンゼルスとサンパウロの予科練の交流が始まったのです。

 翌25日の日曜日に、コチア市カウカイア地区にある続木善夫会員の農場で歓迎会をして、楽しい時間を過ごしました。私はこの予科練の国際交流を報じた当時の日伯毎日新聞(86年5月24日)の切り抜きを日本の同期生に送りました。受け取った同期生は、この切り抜きを記事を「月刊予科練」の編集部に送ったので、そのまま同誌に転載され、同時に私の手紙も全文が掲載されました。

 ブラジル桜花会の会員に、前回書いた酒巻和夫という人がいました。彼は海軍兵学校出の海軍少尉でした。周知のように、太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃には5隻の特殊潜航艇も参加しました。この2人乗りの特殊潜航艇で真珠湾口を閉塞(へいそく)するのが目的でした。ところが、これは成功せず、10人のうち9人が戦死して2階級特進の栄誉に輝き、軍神となりました。残りの1人は人事不省となってアメリカ軍に助けられ、不名誉な太平洋戦争捕虜第1号となりました。それが酒巻少尉です。彼は日本の敗戦までアメリカで捕虜生活を送り、戦後復員してトヨタ自動車に入社。そしてブラジル・トヨタの社長としてサンパウロに駐在していたので、ブラジル桜花会に入会したのです。

 ブラジル桜花会は最盛期には50人に近い会員がいました。行事としては、5月27日の昔の「海軍記念日」と12月8日の「開戦記念日」に続木善夫会員のコチア市にある農場に集合。最初は、軍艦旗掲揚で全員「気をつけ」の姿勢をとります。それから、1分間の黙とうをします。これは、今日の平和と繁栄は祖国を守るために戦陣に散った人々の犠牲の上に築かれていることを忘れず、尊い命を捧げられた英霊に感謝し、追悼の念を新たにするものです。

 参加者は、全員が艦内帽(戦場では、あごひもをしめて戦闘帽となります)をかぶります。続いて、軍歌演習に移って、2、3曲の軍歌を斉唱します。私たち軍歌を歌う者の心情の底を一貫して流れているものは、「戦争賛美」でも「軍国主義復活」でもありません。そこには、そのような思想以前の「原始的で素朴な人間の情感」、すなわち、再び帰ることのない私たちの青春時代への「郷愁」があるだけなのです。

 軍歌演習が終わると、歓談の時間になります。お昼はシュラスコ、持ち寄りのご馳走やビール、ウイスキーなどで盛り上がります。

 「光陰矢の如し」と言いますが、今年は連合艦隊が海の底に沈んで早や71年。帝国海軍の歴史とともに歩んだ光輝ある軍艦旗の多くも、愛する軍艦と運命をともにして太平洋の波間に消えていきました。歳月は否応(いやおう)なしに、あの戦争を体験し、語り継いできた人たちを押し流していきます。日本でも会員らは老い、体験を共にした「戦友会」や「同期会」の多くが会員が大幅に減って活動を終え、解散しています。

 昭和の帝国海軍で軍隊体験を共にしてきた人たちの集まりである「ブラジル桜花会」も昔日の面影はなく、今では私を含めて会員は5人だけになりました。

 戦い敗れて伝統と栄光に輝く帝国海軍は崩壊し去りましたが、米寿を迎えた私の肉体と心情に海軍への言い知れぬ懐かしい郷愁が、歳月の流れとともに深まっていくのを感じています。海軍はよかった。確かによかった。そして、その海軍はもうないのです。

 けう咲きて あす散る花の 我が身かな
 いかでその香を 清くとどめむ
(特攻隊員の歌、詠み人知らず)

(おわり)

2016年10月19日付

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