「油送船移民」の航海㊤ リオ市在住の牧田弘行さん

「油送船移民」の航海㊤ リオ市在住の牧田弘行さん
牧田弘行さん

「今だから話せる」貴重な体験

 リオデジャネイロ日系協会会長や、リオ州日伯文化体育連盟の副会長などを歴任した牧田弘行さん(83、東京)。リオ日系社会での華々しい活躍の裏に、着伯までの波乱の航海があった。1960年、石川島重工業がブラジル政府から受注して製造した油送船「プレジデンテ・ヴェンセスラウ号」の処女航海で、4人の日本人がブラジルへ渡った。4人のうち、牧田さんだけが現地に残り、同船唯一の「油送船移民」となった。油送船によるブラジル日本人移民が何人いるかは不明だが、唯一である可能性も高く、貴重な証言になる。「50年以上経った今だから話せる」と記者に語った航海の記憶には、ブラジル海軍から発砲されるなど、事件とも言える異色の体験があった。新首都ブラジリアへの遷都が実現したブラジル社会激動の時代に、日本人・日本の重工業が力強く踏み込んだ姿も見えてきた。

 牧田さんは、東京外国語大学ポルトガル語学科を卒業し、日本で石川島重工業(現=㈱IHI)の従業員にポルトガル語を教えていた。

 石川島ブラジル造船所(通称・イシブラス)建設プロジェクトのため、生徒が5年間の任期で次々にブラジルへ渡るのを見て、自らもブラジル渡航への思いを募らせた。

 1960年、牧田さんが渡伯を決意した25歳の時、ブラジルの石油会社ペトロブラス向けに造られた油送船「プレジデンテ・ヴェンセスラウ号」の処女航海に通訳として乗船した。

 同油送船で日本人がブラジルへ渡ったのは1度だけで、現在は使われていないという。ブラジルへ渡った日本人は、牧田さんを含めて4人(乙川さん、立入さん、あべさん(漢字不詳))。3人は到着後、リオデジャネイロを見物して日本へ戻った。

◆伯海軍から受けた発砲

 牧田さんは着伯後、イシブラスの現地採用社員として残り、「油送船移民」となったが、同船の旅で、事件とも言える異色の体験をしている。60年12月5日に東京を出帆した同船は航海の途中、アラビア・ペルシア湾ラスタ・ヌーラ港(石油の積出港)で石油を積んだ。そこで4、5人の仲間が下船したという。

 そして翌61年1月16日、サントス港が見えてきた頃だった。目の前に現れたブラジル海軍の軍艦から拡声器で「Pare!(止まれ!)」と叫ぶ声が何度か聞こえた。しかし、油送船は重量の問題で簡単に止めることができないため、ブラジル人船長は船を止めずに前進した。その瞬間、軍艦が発砲。同船の前方に落ち、大きな水しぶきが上がった。

 牧田さんは「デッキ上部にある操縦室から見ていたが、何が起きているのかさっぱり分からなかった」と語る。

 発砲されても船長が船を止めなかったため、2発目を発砲され、船の帆柱の間を抜けていき、同船後方に落ちた。ようやく船を止めた船長は「何故、我々を歓迎しないのか」と怒っていたという。

 また、牧田さんが後に聞いた話によると「ブラジル政府に、日本から密輸品を運んできているとタレコミがあった」そうだ。1発目の発砲の後、ブラジル人の従業員が船の後部から日本から持ってきた土産品を海に捨てたのを海軍に見られていた。密輸品を捨てたと勘違いした軍艦がボート1隻を派遣し、同油送船はたちまち占拠されてしまった。(つづく)

2017年10月3日付

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