【移民107周年】「石巻若宮丸漂流民」 日本人伯国初上陸の歴史背景

水と食料を補給したカナリア諸島のサンタ・クルス港

 日伯友好架け橋協会(中沢宏一会長)は今年3月から8月まで毎月1回全6回、日伯外交樹立120周年を記念し両国間の歴史シンポジウムを開催している。本紙では同協会の協力を得て、3月21日に行われた第1回シンポ「19世紀の日本、ブラジルとこれを取り巻く世界」の内容を紹介し、212年前に日本人としてブラジルに初上陸した「石巻若宮丸漂流民」に焦点を当てる。(編集部)

[numblock num=”序文” style=”1″] 石巻若宮丸漂流民の5人がロシアの世界一周計画の艦船で1803年、フロリアノポリス(Nossa Senhora do Desterro)に上陸して今年で212年になる。サンタ・カタリーナ州では、リンゴの里であるサンジョアキン在住の彫刻家大槻エルソン氏が記念碑を地元の石で製作し、2008年の日本移民100周年にはブラジル宮城県人会から2体のコンクリート製の宮城のこけしが寄贈され、共に文化会館に陳列されている。

 フロリアノポリスの日系団体ニッポ・カタリネンセは、日本移民100周年の記念行事として地元サンバチームに「若宮丸」の山車とそれにふさわしい衣装でカーニバルに参加。それを機会に石巻若宮丸漂流民の調査研究のグループが生まれ、活動が進められている。

 今年2015年は日伯修好通商航海条約締結120周年記念の節目の年で、以前よりフロリアノポリスは日本人初上陸の地点でありながら、観光に訪れても何の記念碑もないとの批判があり、その建立計画が提案されている。

 「石巻若宮丸漂流民の会」の会報「ナジェージタ」には、08年9月の20号、09年の21号、22号にフロリアノポリスの資料が記載されている。フロリアノポリスはブラジル南部の天然の良港であり、重要な役割を果たしてきた。そして、ヨーロッパからの移民はポルトガル領のアソーレス諸島から「若宮丸」の50年も前に2500人が移民しており、イタリア・ドイツなどのヨーロッパ移民がサンタ・カタリーナ州を形成した。戦後、日本からの移民が入り、冷涼な高地で現在、リンゴ、日本梨など温帯果物が生産されている。

 このたび、日伯外交関係樹立120周年の記念として、ブラジルに移住した者の目線で「石巻若宮丸漂流民日本人ブラジル初上陸」と題してまとめてみた。「石巻若宮丸漂流民の会」事務局長の大島幹雄氏より資料を郵送してもらい、会のサイト及び書籍には膨大な資料が収納されていることに対して深甚なる敬意を表したい。[/numblock]

【日本人ブラジル初上陸】

[textblock style=”2″]若宮丸の遭難[/textblock] 1793年11月27日、仙台藩石巻湊から千石船「若宮丸」(約120トン)が、米1330俵と材木400本を積み、江戸に向け出航した。江戸(東京)は当時100万人の人口を抱え、主食である米の3分の1は石巻湊から供給されたと言われている。石巻は1613年、伊達政宗公が支倉常長を団長としてヨーロッパへの慶長遺欧使節団を造船して出航させた港でもある。
 途中、「若宮丸」は福島県塩屋岬の沖で暴風雨に合い遭難した。真冬の北太平洋を漂流し、約7カ月後の1794年6月7日、アリューシャン列島の小島に16人全員が漂着。翌日、船頭の平兵衛が死亡して15人となり、同13日にロシアの基地アシカ島に到着した。
 ロシアのべーリング海、アラスカへの進出は動物の毛皮が目的だったが、特にラッコの毛皮は高値で取引きされたという。約1年後、ロシア帝政の命でカムチャツカを通り、大陸に移動。バイカル湖畔のシベリアの中心地イルクーツクに全員が到着したのが1797年1月。同地に7年間とどまることになる。

[textblock style=”2″]ヨーロッパの情勢 鎖国日本と日露関係[/textblock] 1797年に「若宮丸」一行がイルクーツクに到着したころ、フランスは革命で共和制となり、イタリア戦線で青年将校のナポレオンが頭角を現してきていた。
 その7年前の91年には、伊勢の大黒屋光太夫が首都サンクト・ペテルブルグで皇帝エカテリーナ2世と謁見し、日本への帰国を許可されている。翌92年、ロシアの代表ラクスマンが根室で第1回の日露通商交渉を行った折に、大黒屋光太夫は帰国。老中松平定信は第2回通商交渉を長崎で行うことを許可している。
 イルクーツクには1753年から日本語学校が開設され、日本との交流を準備していた。鬼才・大黒屋光太夫の登場により、ロシアは日本との通商交渉に期待していたが、34年間も皇位におり、ロシア帝国を拡張した皇帝エカテリーナは同96年に死去。パーヴェル1世の後、1801年にアレクサンドル1世が皇帝となった。

[textblock style=”2″]若宮丸漂流民5人 ロシアを出航[/textblock] ロシアは世界一周の探検、調査の計画を実行するため、イギリスから最新の2隻の艦船を購入した。世界一周の旗艦430トンの「ナジェージタ号」と、373トンの「ネヴァ号」でロシア人の他にドイツ、スイス、デンマーク人の自然科学、博物学、天文学、文化人類学などの学者、医師、画家と著名な人物が乗船。ロシア船としては初めて赤道を越えて南下することになった。
 皇帝アレクサンドル1世と謁見して津太夫、儀兵衛、佐平、多十郎が帰国を希望し、通訳として善六が許可された。5人の乗船は日本との交渉を優位に持ってゆこうとの考えから、ロシアの印象を良くしようと首都サンクト・ぺテルブルグでは有人の気球見物をしたり、博物館、プラネタリウム、オーケストラ、バレエなども見物させてもらっていたという。
 1803年7月26日、バルト海の最も奥のサンクト・ぺテルブルグの外港クロンシュタット港を出航。艦長はクルゼンシュテルン。日本使節団長であり、総司令官はレザノフだった。
 デンマークでは博物学者・画家のティレジウス、天文学者のホルネナー、医者・博物学者のランドスドルフが乗船した。イギリスの南西端ファルマスに寄港前、イギリス軍艦がフランス艦と見誤り大砲を撃ってきた事件もあったが、ロンドンでの買い物もあり、8日間も停泊し、10月5日に出航している。
 当時のアメリカは東部13植民地を合州国として独立し、西部への拡大を進めた時代で、1803年にはルイジアナを含む中央部をフランスから買収。東海岸に延びたのが同46年だった。
 10月18日、赤道近くのアフリカ西岸のカナリア諸島のサンタ・クルス港で水と食料を補給し、さらに南下。赤道を通過する際は、皇帝の健康とロシア船初めての赤道通過の祝砲を放ち、祝杯を挙げている。

[textblock style=”2″]フロリアノポリス上陸[/textblock] 1803年11月29日、サンタカタリーナ州Nossa Senhora do Desterro(現フロリアノポリス)に入港。マストの修理と食料、水の補給のため翌04年2月8日まで71日間停泊した。日本人としては初めてのブラジル上陸だった。
 「環海異聞」では、ブラジルは「ブラシリー」とあり、ポルトガル領地、植民地だった。ポルトガルとイギリスは同盟国だったので、港内ではイギリス船2隻と他国船が2隻あり、重要な港であったことがうかがえる。ロシア側の記録にも「物が豊富で、蝶、鳥の色彩が鮮やかで自然が豊かである」と理想郷のごとく記されている。
 フランスのナポレオンがヨーロッパでの戦争で、ポルトガル宮廷がリオに移ったのが1808年。日本人初上陸の5年後だった。その2カ月前、ジョアン摂政はそれまでの鎖国を解き、ブラジルの港を友好国に開くことを宣言している。
当時、米がリオへ輸出品として栽培しているなど興味深い。地球の真反対で石巻から江戸へ米が輸送されたように、フロリアノポリスからリオへ運ばれるなどよく似ているのには驚かされる。
 大西洋上のアソーレス諸島からは1600年代から北伯に渡っているが、公式にはサンタ・カタリーナ島へ1750年から同76年まで2137人が移民している。当然、その人たちとの交流もあったと思われ、「白人は黒人奴隷を犬と同じような扱いをしている」と嫌悪している。
 貨幣はスペインの金銀で取引されていた。また、「ポルトガル本国よりも住民は実に清潔であり、女性は明るい」と航海日記に記されている。
 資料には上陸した日本人は「4人」とあるが、通訳の善六はロシアに帰化したからとの理由で外されていた。日本の現行の国籍法での判断と思われるが、二重国籍を認めているヨーロッパやブラジルの国籍法では善六も「日本人」であり、日本人ブラジル初上陸は「5人」とする。

[textblock style=”2″]ホーン岬を回り太平洋北上[/textblock] 5人は71日間停泊し、1804年2月8日出航。マゼラン海峡の難所を1カ月かけて廻ったが、悪天候で南極圏の方まで流された。幸いにも太平洋に無事出ることができ、若宮丸標流民は日本人として初めて北極圏と南極圏を体験した。チリに寄る予定だったようだが、予定より日数が経過していたのでマルセーサス諸島(タヒチ)に直行している。
 極度の水・食料の節約で、一日に水1リットル少々の配給だった。マルセーサス諸島で食料や水を補給し、ハワイに向かった。ハワイは独立国家で統一したカメハメハ1世が国王だった。ハワイからネヴァ号はアラスカ、アメリカの航路に、ナジェージタ号はカムチャツカのペトロパウロブスクに向かった。ペトロパウロブスクでは、幕府への土産品など用意万端整えての出港となったが、善六は帰化しキリスト教に改宗していたので、幕府との交渉にふさわしくないと判断され、日本行きから外された。

[textblock style=”2″]長崎入港、第2回日露通商交渉[/textblock] 長崎には1804年9月26日に到着。レザノフが使節団長だったが、日本は鎖国時代だったのでヨーロッパの船はオランダの商船以外は入港できなかった。11年前の1792年には、大黒屋光太夫を根室で引き渡す際、「次は長崎で」との約束があったためにナジェージタ号は入港できたが、「どうしてもっと早く来なかったか」と通詞に言われたそうだ。
 約6カ月の間、レザノフと20人くらいは上陸できたが、それ以外は船上だけで過ごすことになったという。「帰国者4人は歓迎されず、平穏な日本を騒がせ、多大な出費をしている。帰国すべきではなかった」とし、長崎の日本人は直接4人と話すことを禁止された。多十朗は落胆のあまり短刀をのどに刺し、自殺を図っている。
 1805年4月4日、目付の遠山金四郎景元が長崎に赴き、幕府の訓令を伝えた。それによると、「漂流民の護送には感謝するが通商は絶対に断る。贈物親書を受け取らない。使節団の食料、船の修理代は受け取らない。漂流民を連れて帰ってもよし。これからの入港はどこの港でも認めない」と厳しい訓令だったとし、通訳も驚くほどの幕府の決定だった。一方、民間の商人は商売が始まるものと思い、期待していたようだ。
 4月9日、若宮丸漂流民4人は日本側に引き取られ、同18日、ロシア使節団は半年の交渉もむなしく失意の元に長崎を去って行った。この事件後、ロシアの対日政策は厳しくなる。

[textblock style=”2″]4人の帰国。取調べ、帰郷[/textblock] 1805年12月、4人は江戸に着き、江戸の仙台藩邸で大槻玄沢の40日間の聞き取りがあった。翌06年秋に「環海異聞」が幕府に献上され、これによってブラジルが初めて日本に紹介されたことになる。
 その後の4人の消息の記録はないが、出身地には墓碑、過去帳、遺品として皇帝より賜わった上着、供養碑がある。供養碑の中で、石巻市禅昌寺には遭難後7年(1800年)、七回忌法要の際に建てられた供養碑があった。しかし、4人が帰ってきたので、その供養碑を庭に埋めたという。ところが1989年(平成元年)の庭園改修の折、供養碑が約200年ぶりに発見された。そして改めて庭園内に建て直してあるそうだ。4人はそれぞれの生まれ故郷に帰り、静かに余生を過ごした。

[textblock style=”2″]上陸記念碑の建立企画[/textblock] 善六は、レザノフが航海中に編纂した露日辞典の最大の協力者で、その辞典には「仙台弁」が使われている。以後、通訳として高田屋嘉兵衛の「ゴローニン事件」に関わるなど活躍した。
 宮城県石巻には「石巻若宮丸漂流民の会」があり、各国から関係資料を集めるなど活発な活動をしている。上陸地フロリアノポリスでは、2003年には200年祭を祝い、ニッポ・カタリネンセ協会が様々なイベントを企画。サンタ・カタリーナ州議会ではサンタ・カタリーナ日本週間を行っており、今年の日伯外交関係樹立120周年の機会に上陸記念碑が建立されることが期待されている。

2015年6月20日付

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