【今月のエッセイ】水に想う 小野寺 郁子

【今月のエッセイ】水に想う 小野寺 郁子
小野寺さん

 「水ばち」という言葉を、わたしは生涯で一度だけ聞いたことがある。手持ちの幾冊かの辞書にも載っていない。言葉が死語になれば、その言葉を理解できる人もいなくなるのではなかろうか。

 1940年に、ブラ拓管轄内であったチエテ移住地(現在のペレイラ・バレット)に入植した私共一家は、一番奥地のピラカンジューバ区という所へ入った。原始林を切り開いたその土地は肥沃で、よく作物はできたのであったが、何故か井戸を掘っても水が出なかった。

 100メートル置きに建ったどの日本人の家でも必ず井戸を掘ったのに20番地以後の井戸は、朝20リットルの石油の空き缶に濁った水が1杯足らずしか汲めなかった。

 けれども30番の私の家より1キロ200メートルある18番地の井戸は恵まれた事に何家族もが水をもらいに行っても不足することなく、澄んだ水が湧き出るのであった。

 両親は畑仕事に追われているので、水汲みはもっぱら長女の私の仕事だった。かなりの深井戸から手廻しの釣瓶で汲み上げた水を、天秤棒の両端に一個ずつぶら下げた石油の空き缶に満たして担って帰るのだった。

 それは都会育ちの私には重荷であった。家族みんなは言うまでもなく、水を大切に使って、18番地の井戸の主には満腔の謝意を持ったのであった。

 ヒョイ、ヒョイとうまく調子を取って天秤棒を担ぐコツを私がやっと覚えた頃、カロッサ(荷車)はなくとも馬を買う事ができた。タローというその馬は大そう素直で一家の良い一員となった。

 そりを作り、水を満たした樽を乗せたそりを馬に曳かせて運ぶようになり、それは9歳ぐらいであった弟の役目となった。デコボコの土道を天秤棒で担いで帰ると、水は大分こぼれて減っていたが、樽ではもっと大量の水を無駄なく運んでくることができて助かった。樽はピンガ(火酒)工場のお古だったので最初はピンガ臭い水だった。

 ある日のこと、もう家近くまで帰って来た時、突然樽のタガが外れて折角運んで来た水が全部こぼれてしまった。大声で泣いた弟の声は、3軒向うの家まで聞こえて皆をびっくりさせたのであった。

 そんな頃のある時(これは父さんの『水ばち』かも知れない)と、母がふと呟いた。「水ばち」って何かと尋ねると、――《名古屋に住んでいた頃、父は銭湯には行かず、毎晩湯槽のふちすれすれまで水を湛えた風呂を自宅に立てて、ザブンと飛び入り、湯を四方に溢れさせるのが習慣であった。或る日、丁度地方の祖母(父の母親)が来ていて「そんなことをしていると、今に『水ばち』が当たるよ」と言ったのだ》――と、母の説明であった。

 往時の体験が身に沁みている私は、常に水を大切に暮らしているのであるが、周囲を見れば大体にいずこも支払うのだからと、存分に水を使用しているようである。

 現在は共存の世であるから、個人的にではなく、一般に将来「水罰」が来なければよいが、と私の老婆心はひそかに思うのである。(楽書倶楽部から転載)

2018年6月26日付

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