【特集:日伯友好病院】病院建設は日本移民の悲願

【特集:日伯友好病院】病院建設は日本移民の悲願
日伯友好病院の全景

30年で高度医療を提供できるまで成長 多くの人たちの熱意と協力・支援で実現

 日本移民の高齢化が目立ち始めた1970年代、ブラジル語を駆使できない移民たちの間に、「日本語で治療を受け、入院したら味噌汁が飲める病院が欲しい」という声が湧き上がった。日系社会のこうした要望の高まりで、サンパウロ日伯援護協会の幹部を始めとした日系社会の重鎮たちは、日本病院を作ろうと立ち上がった。

病院建設気運の高まり

【特集:日伯友好病院】病院建設は日本移民の悲願
Sala do Centro Cirúrgico

 63年、ブラジル日本文化協会ビル地下に援護協会は、日本語で診察を受けられる診療所を設けた。ここには日本語の解る医師がいたが、重症患者の入院設備がなく、入院が必要な患者はその都度、他の病院へ送り込む必要があった。

 患者を送り込んだ非日系の病院は利益追求型が多く、医療費も高額で、しかも日本語はほとんど通じなかった。このため患者は「ここが痛い、と日本語で言える病院に入りたい」という病院を切望した。

 こうしたことから日系社会の指導者たちは、日本語の通じる病院の必要性を痛感した。ブラジルへ移住し、様々な苦労を経て晩年を迎えた人たちが、十分な医療も受けられないような日系社会ではいけない、と考えたのである。

日本病院返還運動は実らず

 戦前の日系社会には、39年、天皇陛下からの下賜金、日本外務省の補助金、在留邦人基金、日本移民の寄付金で建設された日本病院(現サンタクルス病院)があり、サンタクルス慈善協会が運営していた。ところが39年、第二次世界大戦が勃発し、42年に日本とブラジルが国交を断絶した。日本病院は敵性国資産としてブラジル政府に接収されてしまった。

 終戦になっても、同じく接収されていたドイツ系のオズワルドクルス病院、イタリア系のマタラーゾ病院はもとの経営団体に返還されたが、日本病院だけは返還されなかった。戦時中、病院の経営に入り込んだブラジル人たちが経営権を手放そうとしなかったためだ。

 病院建設の必要性を痛感していた日系社会の指導者たちは、多額の建設資金を必要とする新たな病院建設よりも、接収された日本病院を返還して貰えばいいと考え、返還運動を始めた。日系の連邦議員を通じてブラジル政府に返還を訴えたり、病院の経営陣の中に多数の日系人を送り込み経営権を握るといった方法が検討されたりもしたが、結局返還されることはなかった。

 日本病院の返還は早期には無理と判り、日系社会は新たな病院づくりに舵を切った。当時、援護協会会長だった竹中正氏は積極的に日本病院建設に取り組み、今では日伯友好病院の父と呼ばれている。

建設計画が加速した工業 移住センターの払い下げ

 病院建設計画は援護協会が中心になり、88年に迎える日本移民80年祭の目玉事業として進めることになった。援護協会の竹中会長らの動きはすばやく、建設地の選定に取り掛かった。こんなとき、朗報が飛び込んできた。JICAがブラジルで行っていた移住者支援事業がブラジル政府から違法との指摘を受け、日本へ引き上げざるを得なくなった。これで所有していたサンパウロ市北東部(パルケ・ノーボ・ムンド地区)の工業移住センターの土地が宙に浮くことになった。

 竹中氏はここに目をつけた。ここを払い下げて貰い、病院を建設しようと考えた。1980年、竹中会長は援協の原沢和夫専任理事と「日本病院建設青写真」を携え訪日、無償譲渡実現のため関係方面に強力に働きかけた。要請されたJICAは外務省と協議、援協への譲渡を大筋で認めた。翌1981年、病院建設計画書類と譲渡申請書をJICAに提出、1982年の大蔵省国有財産担当者が来伯、援協の活動を細かくチェックし、5300平方メートルの土地の払い下げを了承した。

 竹中氏たちは無償での払い下げを狙っていたが、国有財産の払い下げ規定で無償というわけにはいかず、当時の3分の1の地価の4500万クルゼイロで譲渡が決まった。竹中氏たちは土地代の支払いに頭を痛めたが、84年、サンパウロでチャリティショーを開いた北島三郎(演歌歌手)が同公演の収益金4500万クルゼイロをそっくり援協に寄付し、援協は土地代支払いにそれを充てた。

まずは救急病院の建設

 竹中氏を始めとした援協幹部は、本格的な病院建設の前に、最低必要な医療設備を備えた救急病院の開設から始めることにした。84年12月、工業移住センターの建物の一部を改造することから救急病院建設に着手、85年5月に落成式を迎えた。完成した救急病院は6病室、ベッド16床、3診療室、検査室、レントゲン室、看護師控え室を備えた小さなもので、医師(日系人)は11人だった。

 同年12月には医師の13人に増え、看護師・事務職員も13人になった。半年が過ぎたときには、入院患者98人、外来433人と経営は順調だった。入院患者のほとんどは日本人と日系人で、日本食が提供され好評を博した。時間が経つにつれ、非日系人の利用者も増えていった。

 救急病院建設と平行して病院建設計画も進み、85年3月、本格的な病院建設に取り組む病院建設委員会が発足した。

課題は建設資金集め

【特集:日伯友好病院】病院建設は日本移民の悲願
Laboratóio de Intervenção Cardiovascular

 建設委員会には建築担当、医療担当などの各部署が設けられ、委員長には竹中会長が就任し、日系社会の有力者約1000人が参集した。

 病院建設で最も大きな課題は資金の捻出だった。建設計画が練り上げられ、素晴らしい青写真が出来ても、建設につぎ込む資金がなければ、それは絵に描いた餅に過ぎない。計画では建設に480万ドル(6億円)、医療機器に264万ドル(3億3000万円)、設備に104万ドル(1億3000万円)の計848万ドル(10億6000万円)もの膨大な資金が必要とされていた。

 竹中委員長を中心に募金活動が始められた。85年6月には竹中委員長は訪日、1カ月間滞在し関係団体を訪問、実に60人と面談し協力を求めた。ブラジル通の田中龍夫代議士、福田赳夫代議士をはじめ政財界の主だった人と面会、協力を求めた。朝日、読売,毎日といった新聞社にも協力を求め紙上で報じて貰ったほか、テレビにも出演し病院建設の意義をPRした。

 こうした竹中氏らの活動で日本国内でも病院建設への理解が深まり、支援の輪が広がっていった。北島三郎がチャリティショーを開き,建設資金の一部にと417万円を寄贈するなどさっそく効果も現れた。

ブラジル国内でも募金活動

 とりあえずは建設資金6億円の手当が必要だった。これはブラジル国内で手当てすることが求められた。日本から帰国した竹中氏らは、85年9月からサンパウロ近郊の各日系団体を回り、各地で病院建設の説明会を開いた。各地の日系人は病院建設に賛同、協力を約束した。

 日系企業の南米銀行グループ、コチア産業組合、南伯産業組合、宗教団体、日系企業にも協力を求めた。これらの団体、企業からは資金提供が相次ぎ、サンパウロで公演した杉良太郎(俳優)も公演の収益金を寄付するなど募金は順調だった。

 中にはびっくりするような篤志家も現れた。710万クルザードを寄付したカオリン鉱山の堀井文夫社長、1400万クルザード相当の金塊を寄贈した歯科医療器具販売の宝田豊造さんだ。彼らの行動が新聞報道され、募金活動は大いに盛り上がった。

 病院建設委員会幹部の努力で、86年10月には5000万クルザード(6億5000万円)もの寄付金が集まり、建設資金の目処が付いた。これで日本病院誕生へ大きく前進することになった。

始まった病院建設

 病院建設委員会が発足した85年12月、最初の建設委員会が開かれ、建設へ向けての細部が決められた。病院の規模は地下1階、地上6階建て、地下1階から地上3階までは87年6月に完工し、地上4階から6階は資金の集まり具合を見て決める、というものだった。

 86年4月の建設委員会臨時総会で、病院名も、これまでの仮称「援協日本病院」を「日伯友好病院」とすることが決まった。同年5月には、建設会社7社が参加して施工入札が行われ、工費3395万クルザードで青木モルンビー建設が落札した。6月には定礎式が行われ、同式で竹中委員長は「病院が完成すれば,医療保健面で地域社会に貢献し、日伯両国間の医学交流も本格化する」と喜びを語った。

 建設工事は始まってから8カ月後の87年1月には地下1階が完成、同2月に2階、3月には3階の外壁部分が完成した。その後20日間で3階機械室、4、5、6各階の外壁が完成し、6月には上棟式が行われた。

 建設工事は順調に進み、87年10月には日伯友好病院初代院長に消化器分野の権威、菅原正視医学博士(サンパウロ州公務員救急病院院長、二世)の就任が決まった。

念願の病院が完成

 88年4月、日伯病院は細部の仕上げを残しほぼ完成、建設会社から建設委員会に引き渡された。引き渡し式には日本政府関係者、建設業者、建設資金集めに努力した委員会関係者ら多数が列席した。

 これに先立つ同年1月、菅原院長と小畑援協事務局長が訪日、日本側で集められた寄付金2億5000万円で各種医療機器を選定、購入した。購入された機器はCTスキャナー、心電図、手術用モニター、輸液ポンプなどだった。

 4月に病院の引き渡しを受けた建設委員会は、さっそく日本政府の助成、寄付金で贈与・購入した医療機器の搬入を始めた。この時は日本で購入した機器以外に各種コンピュータ、断層撮影診断装置、超音波診断機、集中治療用モニター、内視鏡セット8台も搬入された。

 日本移民80年記念日の88年6月18日、日伯友好病院は落成式を迎えた。落成式には礼宮さま(現秋篠宮殿下)、サルネイ・ブラジル大統領、ギマランエス・ブラジル連邦議会議長、福田赳夫元総理、田中龍夫元文相など日伯両国の要人500人が出席、盛大に行われた。式で礼宮さまは「病院建設にあたり、ブラジル連邦政府、サンパウロ州政府、サンパウロ市より理解と支援を受けたことを喜ばしく思います。この病院がブラジル国民に高度な医療サービスを提供し、地域社会に奉仕、日伯を結ぶ架け橋になることを記念いたします。援護護協会の役職員を始め関係者の皆様に、お祝いを申し上げます」と言葉を述べられた。

神内良一氏の巨額寄付で 伯国有数の病院に成長

 88年6月、日伯友好病院の落成式を終えた建設委員会は解散、9月に援協理事、経営専門家、医療関係者、弁護士など38人で構成する病院経営審議会が発足した。病院の管理運営をする最高の意思決定機関であった。旅立った日伯友好病院は、その後も多くの人たちの支援を受けながら、成長していった。

 支援者の中で特筆すべきなのは、プロミス創業者の神内良一氏である。同氏は5回に渡って数々の支援を行った。病院4階、5階の設備費支援(7550万円)、福祉基金創設(2億円)、97年完工の病棟建設(5億3000万円)、検査センター建設費(1億円)と支援金は10億円近くにもなる。

 こうした個人や企業、団体の支援を受けながら「日伯友好病院」は病床243床、近代的な医療設備、ハイテク医療機器を備え、高度医療サービスを提供するまでになった。

 今では、診療科目も総合診療科、外科、小児科、産婦人科、整形外科、循環器科、神経科のほか24時間体制の緊急外来を備え、優秀な医師を抱えるサンパウロ州有数の総合病院である。来院する患者は年間1万2000人を超えている。

 

病院誕生の裏話 竹中会長の泣き落とし

【特集:日伯友好病院】病院建設は日本移民の悲願

 1980年、竹中正会長が、日本政府にJICAが所有する工業移住センターの払い下げの陳情に来日した。10月だった。まだ、コートを着るほど寒くはなかったが、この日、竹中はバーバーリーの濃紺のカシミヤオーバーを着込んで国会議員会館のロビーにたたずんでいた。取材同行のために待ち合せていたのだ。「やあ、久しぶり。元気かい」とにこやかに声をかけられ、「今日は何とかお願いを聞いてもらわないと」と引き締まった表情に変わった。

 海外移住家族会連合会の会長として移住者援護に力を注いでいた田中龍夫代議士に面会を申し込んでいたのだ。

 事務所に入ると、待合室には地方から出てきたのだろう、陳情団と思しき人たちがソファーに腰を下ろしていた。秘書が「竹中さん、20分だけですよ。ブラジルの人達が来ると先生は時間を忘れちゃうんだから」と釘を刺され、部屋に通された。旧知の間柄の竹中は、米つきバッタのごとく深々と何度もお辞儀をした。

 あいさつも早々に、体を乗り出すようにして、日本病院建設の話を切り出した。「サンパウロの工業移住センターの無償払い下げに力を貸してほしい」と最後に再び、深々とお辞儀をした。

 田中は間髪を入れず切り返した。「ブラジルには戦後移住した人たちで独立できずに支援の必要な人たちがいるのではないか。病院よりそうした人たちの援護が先だろう」。

 竹中はひるまなかった。「いや、移住者はもう大丈夫です。今はその必要はありません。立派にやっています。今、日系社会で一番必要なのは病院なのです」と机に額が付くほど頭を下げ、大声で泣き始めた。一瞬驚いたような表情をした田中は、「竹中さん、顔をあげなさい」と促し、「わかった。君がそういうんだから間違いはないだろう」と横にあった受話器を取り上げ、外務省移住課の課長席に電話した。

 「田中龍夫だ。サンパウロの援護協会の竹中会長がお見えになって、JICAの工業移住センターのことで話があるといっている。お会いして十分に話を聞くように」といって受話器を置いた。竹中は涙声で「先生、ありがとうございました。頑張ります」と涙をぬぐった。

 40分以上話し込んだのだろう。待合室に戻ると入った時より多い人が待っていた。秘書から「困るのよね。こんなに長く話し込まれちゃ」という声を背中で聞きながら、事務所の外に出た途端、竹中が「ちょっと足らなかったかなあ」と問いかけて来た。意味が分からず、「何が足らないんですか」と返すと、「泣き方が足らなかったんじゃないかと思ってね。どう思う」と茶目っ気のある笑顔で肩を叩いた。

 見事な芝居だった。これが、日本での病院建設の第一歩だった。

 人生の最後まで援護活動を貫き通した男の情熱と生きざまを見たような気がした一瞬だった。(敬称略、鈴)

 

2018年9月25日付

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password