【移民110周年特集】「日本移民の故郷」 プロミッソンが入植100周年

【移民110周年】「日本移民の故郷」 プロミッソンが入植100周年
入植100周年記念祭ロゴ(提供写真)

 「日本移民の故郷」であるサンパウロ(聖)州プロミッソンは、1918年にイタコロミー移住地(現・上塚第1植民地)への入植が始まってから、今年で100周年を迎える。7月22日には、「プロミッソン入植100周年記念祭(前田ファビオ実行委員長)」が予定されており、眞子さまの式典ご出席予定に合わせた準備が着々と進められている。同地の開拓当初から今日までの歴史を振り返る。

◆プロミッソン創世記

 『ノロエステ記念史』によると、プロミッソンは、聖市から493kmに位置する標高420mの土地となる。

 1908年、鉄道ノロエステ線が、当時ファゼンダ・パットスと呼ばれていた土地まで開通し、列車の着地がエイトール・レグルー駅と名付けられた。同地は、鉄道開通により居住者が増加し、17年には日本人移民やイタリア人移民らが入植。19年にエイトール・レグルー治安区、21年9月にプロミッソンへと改称され、23年11月に、プロミッソン郡となった。

 16年、プロミッソンの原生林に日本人移民として初めて足を踏み入れたのは、福岡県出身の後藤七郎氏で、17年には熊本県出身者、鹿児島県出身者らが続けて入植した。

 18年3月、「ブラジル移民の父」と称される皇国植民会社の上塚周平氏らが同駅周辺の、1400アルケールの原生林を10アルケールごとに売り出したことを契機に、同地がイタコロミー移住地と命名された。イタコロミーは、先住民グアラニー族の土地を意味し、同族の墓跡などが開拓時に見つかったそうだ。命名された名前とは別に、入植者たちの間では、「上塚植民地」と呼ばれ、今日のプロミッソンの原形となった。

 (※)上塚氏は、東京大学法学部を卒業後、移植民事業を志して皇国植民会社(水野龍社長(当時))に入社。08年に笠戸丸に乗船して渡伯し、同社現地代理人に。労働者として農業に従事する日本人移民の待遇を見かねて、自営の植民地構想を抱いた。同地では「事務所」と呼ばれた家で質素に暮らし、「日本移民の故郷」プロミッソン開拓に努め、「移民の父」と称えられている。

◆発展の兆し、戦後の対立

 23年に行われた調査では、同地の土地所有者は247家族で、同地周辺には406家族が居住していたという。農園で育てられていたコーヒー樹は約300万株で、ブラジル全土の日本人移民が所有している樹の3分の1を占めたそうだ。現在はコーヒー農園が無くなり、さとうきび栽培、牧場経営が主産業になっている。

 28年、最初の周年事業となった「植民地開拓10周年」では「開拓十周年記念塔」が上塚周平公園内に建立され、記念祭典も開催された。当時、同地の居住者は約1000家族を数え、記念祭典も大いに盛り上がったと記録されている。

 25年には、汎プロミッソン中央日本人会が創立され、初代役員として顧問に上塚氏、間崎三三一(まざき・ささいち)氏、会長に佐々木光太郎氏らが名を連ねた。

 33年の調査では、プロミッソン近郊までを含めた居住者は1362家族、6757人まで増加しており、52年3月に、プロミッソン連合日本人会が組織され、会員131人を有していた。

 68年、入植50周年を迎えた同地では、現在まで同地を二分する出来事が起こった。上塚氏の友人である菊池恵次郎氏から、上塚氏の「事務所(旧家)」の土地管理を任され、「上塚氏の右腕」と言われた間崎氏が土地をブラジル人に売却。さらに、間崎氏が上塚公園内の「開拓十周年記念塔」を、プロミッソンの街中に移設する話を持ち出したことで、同地は二分した。そこには、戦後の勝ち負け抗争で思想が分かれた影響もあったとされる。記念塔に関しては、プロミッソンの町中に記念の時計台を建立し、移設は行われていない。

 現在までプロミッソン日伯文化体育協会(岡地建宣会長)とプロミッソン日系文化運動連盟(吉田マサヒロ会長)の2団体に分かれたままとなっており、2008年のブラジル日本移民100周年時には、統一を目指して同周年委員会を立ち上げたものの、世代間の軋轢(あつれき)や運営面で意見が一致しなかったことで、実現しなかった。

 しかし、入植100周年で、再び統一に向けた実行委員会を立上げ、協力体制を布(し)いている。

次>100周年機に2団体統一へ

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