【移民110周年特集】アマゾン移民入植89周年 機運が高まる来年の入植90周年

【移民110周年】アマゾン移民入植89周年 機運が高まる来年の入植90周年
マナウス近郊を流れるネグロ河

 1929年に第1回アマゾン日本移民がアカラー植民地(現トメアスー)に入植してから今年で89周年を迎えた。アマゾン地域では、パラー州ベレンやアマゾナス州マナウスを中心に、来年の「アマゾン入植90周年」に向けての機運が高まり始めている。かつては「緑の地獄」と揶揄(やゆ)されたアマゾン熱帯雨林も、今では「緑の宝庫」と称され、周囲の基礎設備整備も進んでアマゾン移民の入植当時とは違う姿へと変貌を遂げている。入植当時からの歴史を振り返り、来年の入植90周年に向けた現地の動向が注目されている。

◆移民以前のアマゾンに居た日本人たち

 1895年8月21日、パラー州知事の意向で、同州土地局と東洋移民貿易会社の代表者との間で、日本人移住者3000人の勧誘に関する契約が交わされた記録が残されている。しかし、これは日伯修好通商条約締結前の出来事で、日本側と実際に交渉した事実は一切ないというが、当時からアマゾン地域が日本人移住者の勧誘に関心を抱いていたことが分かる。

 1912年、笠戸丸到着以前からサンパウロへ移住していた鈴木貞次郎がアマゾン地域を調査。15年には、ペルー下りの日本人移住者、山根武一がロンドニア州ポルト・ベーリョ市に、玄陽松一がベレンに転住したことが記録されており、最初にペルーから転住した存在となる。

 16年にはコンデコマ(前田光世)がマナウスで格闘技興業。その後、22年にブラジルに帰化し、ベレンに定住した。

◆移民実現に向けた動きが具体化

 19年、在伯特命全権公使の堀口丸萬氏がベレンを視察し、アマゾン流域の全面調査を実施した。

 23年、田村七太在ブラジル特命全権大使にパラー州知事テイジニオ・ベンデス氏から、同地に移民を受け入れることで更なる国土開発を目指したいとの意向が伝えられ、外務省に北伯地域及びアマゾン地域への国策移住案が浮上する。当時からアマゾンの原材料に着目し、政府から移民事業を譲り受けた鐘渕紡績(カネボウ、武藤山治社長)が、同社取締役の福原八郎に「アマゾン調査団」を組織させ、26年にパラー州の調査を行った。

 28年、カネボウの和歌山技師長を辞職し、農牧産業調査の名目で北米、欧州を視察して南米入りした大石小作氏が通訳として同調査団に加わる。調査の結果、アカラーを始めとするパラー州内4カ所で土地の権利を取得し、トメアスーに本部を置く南米拓殖株式会社(南拓、福原八郎社長)が設立された。

 南拓設立を知ったアマゾナス州知事のエフィジェニオ・サーレス氏が福原社長に電報で同州の調査を依頼し、大石氏に調査を委ねた。同州マウエス原産の精力剤として知られるグァラナに有望性を見出した大石は、郡長と交渉の末、同年9月にマウエスに本部を置く、アマゾン興業株式会社(沢柳猛雄専務取締役=代表)を設立した。設立前の8月には同社の現地要因6人と直営農場長として大石氏が待機した。

 東部アマゾンの開拓を皮切りに、わずか5年間で西部開拓が急速に進んだ。

◆移住の開始

 29年9月に第1回アマゾン日本移民43家族189人(単独青年9人を含む)が、同年7月24日に神戸港を出帆した「もんてびでお丸」に乗船。9月7日にリオに到着した後、翌8日に「まにら丸」に乗り換えて16日にベレン入港を果たした。

 アカラー植民地(現トメアスー)に入植する第1回移民は、南拓が手配した汽船「アントニーナ丸」に乗船し、22日午前8時半頃にアカラーの波止場に到着。同年12月には、第2回移民35家族186人、翌年には第3回移民が到着している。

 また、西部マウエスには29年10月16日に神戸港を出帆した「さんとす丸」に乗船した9家族32人と単独青年17人の計49人が、翌30年1月2日に入植している。

 37年まで続いた戦前移民は計352家族2104人、53~80年までの戦後移民は計278家族1797人(単身者264人含む)がトメアスーに入植している。

◆カカオ、野菜、ピメンタ、ジュート

 開拓当初、南拓が推奨したのはカカオだった。永年作物のカカオは、採集までに時間がかかるために移住者の生活に適さず、31年にアカラー野菜組合(現トメアスー農協(CAMTA))が発足し、米作、野菜栽培で自給自足を試み、ベレンで野菜売りも始める。当時のアマゾン地域で野菜を食べる習慣はなく、全く売れなかったという。

 33年、南拓の社員だった臼井牧之助氏が中継港のシンガポールで20本のピメンタ(胡椒)の苗を持ち込む。そのうち2本が活着し、後に「黒ダイヤ」と称され、劇的な胡椒バブルを巻き起こす。しかし、当時流行した悪性マラリアによって医療が脆弱なアマゾン地域の日本人移民らは、同年の間に3000人を超える大量の罹病者が出た。

 35年には南拓が経営破綻し、直営の農場試験場が閉鎖される。福原代表が引責帰国し、第1回移民の加藤友治氏と斎藤円治氏の2人にピメンタの苗が託された。また、アカラー野菜組合が産業組合に発展し、南拓撤退を皮切りに、トメアスーの中枢組織へと成長した。

 同時期のアマゾナス州では33年、尾山良太氏(岡山県)が耕地で新種のジュート(ゴム)を2本発見し、生育した1本から3キロの種子採集に成功した。同年設立されたアマゾニア産業研究所で種子を30キロに増やし、尾山氏ら2人に栽培が依頼された。後に同新種は「尾山種」と命名されている。

 35年にはアマゾニア産業株式会社(前田光世代表)が設立され、40年にアマゾン工業株式会社と合併する。

次>「緑の地獄」から「緑の宝庫」に

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