【移民110周年特集】伯国邦人最初の「桂植民地」 105年経ち、「兵どもが夢の跡」

【移民110周年】伯国邦人最初の「桂植民地」 105年経ち、「兵どもが夢の跡」
青柳郁太郎氏

 1913年11月、ブラジル最初の邦人殖民地である「桂植民地」がサンパウロ州イグアペの街からリベイラ川を約20キロ遡(さかのぼ)ったジポブラに創られてから、今年で105年を迎える。稲作を目的として創設された同植民地には現在、日本人及び日系人は誰一人として住んでいない。かつての住居跡のほか、唯一当時の精米所が倉庫としてブラジル人に使用されているだけで、地元民からは「ビラ・ファンタズマ(ゴーストタウン)」とさえ呼ばれている。イグアペ市内セントロ区のアデマール・デ・バーロス通り沿いにある小さな公園内には、2003年の同植民地入植90周年を記念して建てられたモニュメントがあり、第1陣入植者36家族の家長名がアルファベットで刻まれている。創設から1世紀以上が経った現在、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」の感は否めない。

 サンパウロ人文科学研究所がホームページ上で掲載している「青柳郁太郎」に関する資料などによると、同植民地創設の背景には、1908年7月に組閣された桂太郎第2次内閣で農商務大臣に入閣した子爵の大浦兼武氏が、日本国民の主食である米の補給を海外に頼らざるを得ない当時の状況の中、南米への殖民研究を一緒に行っていた青柳郁太郎氏らを巻き込み、同内閣に南米殖民の意見書を提出した経緯がある。しかし、当時の小村寿太郎外相が、外交的見地から同意見書に反対したため不成立となり、政府に頼らず同志たちの力でブラジルでの殖民計画を実現化させようと、青柳氏は大地主の大沢幸次郎氏や教育家の杉浦重剛氏らの賛同を得て、「東京シンジケート」を設立した。

 現地調査及び視察を目的に、「東京シンジケート」代表の青柳氏は先頭に立って10年6月に東京を出発。シベリヤ、ドイツを経由して同年9月にブラジルのリオ市に到着している。その後、18カ月にわたってブラジルに滞在した青柳氏は、その3分の1の半年間でサンパウロ州をはじめ、パラナ、サンタ・カタリーナ、リオ・グランデ・ド・スルの4州を回った。

 その結果、聖州イグアペのリベイラ川、パリケラアスー、カナネイア間の土地が殖民集団地の最適地と考え、「イグアペ植民地」と総称される3植民地(桂、レジストロ、セッテ・バーラス)の創設を計画。聖州政府との交渉の結果、5万ヘクタールの土地を「東京シンジケート」に無償譲渡する契約を締結した。

 日本側では12年12月に第3次桂内閣が組閣され、桂総理の肝煎りで翌13年1月に実業家の渋沢栄一氏、当時の日銀総裁だった高橋是清氏など30人を桂総理が兼任していた外務大臣の官邸に招待。桂総理自らの懇願により現地拓殖会社を設立する委員会が成立し、同年3月に東京商業会議所で「伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社」の創立総会が開かれたという。

 同社の取締役となった青柳氏は聖州政府との諸手続きを行い、現地に駐在して植民地事業に着手。当時のイグアペ郡会議長の尽力でリベイラ川沿岸のジポブラの1400ヘクタールの土地が拓殖会社側に無償提供され、「桂植民地」の前身のジポブラ植民地には13年11月9日に日本人36家族が入植。ブラジル最初の日本人植民地として発展した。

【移民110周年】伯国邦人最初の「桂植民地」 105年経ち、「兵どもが夢の跡」
かつての精米所だった倉庫。現在はブラジル人が使用

 当時の植民地内は27ロッテ(各25ヘクタール)に区分。農事試験場、精米所、会館や学校なども建てられ、入植者たちは同地で米作を中心に、フェイジョンやトウモロコシ等の野菜栽培のほか、ピンガ生産なども行っていたそうだ。

 14年以降、ジポブラ植民地は桂太郎氏の偉業を記念して「桂植民地」と改称され、17年には伯剌西爾拓殖株式会社が海外興業株式会社(KKKK)に併合。レジストロに当時「南米一」と称された精米工場が建設されると、桂植民地で栽培された米も輸送されるようになり、イグアペ、レジストロ、セッテ・バーラス地域は発展を遂げていった。

2018年6月23日付

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