【2018年新春特集】もう一つの学生運動 日本学生移住連盟 ―移住に賭けた我らが世界―

もう一つの学生運動 日本学生移住連盟  ―移住に賭けた我らが世界―
ブラジル丸最後の航海で、OBの壮行会をする学生たち(1972年11月15日横浜港で)

 ブラジルの日系コロニアは今年、移民110周年の節目の年を迎えた。この間、様々な移住形態でブラジルはじめ各国に日本人が移住した。その中にあまり知られていないが、「日本学生海外移住連盟」(略称・学移連)という大学生が組織して移住に取り組んだ団体が存在した。1955年に設立された当時、日本の社会改革を目指した全学連(全日本学生自治会総連合)が一世を風靡した時代でもあった。学移連は海外移住の啓もう・移住推進に力を注いだ、方向性が全く異なるもう一つの学生運動だった。以後、97年に閉鎖するまでブラジルを始め中南米、カナダなどに実習生を送り出し、OBもブラジルを始め世界各国に移住している。本紙では、学移連活動を通して大学生が何を行ったのか、また、戦後の移住にどのようにかかわってきたのか、戦後の移住情勢の変遷などを加えて検証することを目的として3月から「もう一つの学生運動 日本学生移住連盟 ―移住に賭けた我らが世界―」のタイトルで連載を行う。本ページはその序章である。

GHQに阻まれた 戦後の移住再開

 戦後移住が再開されたのは53年、ブラジルアマゾンに入植した「ジュート移民」が最初だった。
日本は終戦後、海外から軍人や民間人など600万人もの人々が復員するため、政府は日本国内でこれだけの人間を吸収できないことから海外移住の再開を急務と考えた。しかし、GHQの占領下にあったため国策としての海外移住が認められなかった。
51年、サンフランシスコ講和条約が締結されたことにより外務省は欧米局内に移民課を設置し、本格的な移住政策を策定することに力を注ぐようになる。

 54年には日本海外協会連合会(略称・海協連)、翌55年には日本海外移住振興㈱を設立し、本格的な移住者送出計画を進めた。その一方で、国内で移住の啓もう活動を進めるためには若い人たちの協力が必要だと考え、大学生との連携を考えた。

海協連の後押しで55年、学移連結成へ

 当時、日本の大学進学率はわずか18・4%。大学生はエリートだった。大学には移住研究会や海外研究会、中南米などの地域研究会が雨後の筍のようにできた時代でもあった。彼らは、大学間の横のつながりを模索し、海協連を訪れ、情報収集をしていたのだ。これらの大学生を集めて、海協連が学移連の発起人会を開いたのが55年1月だった。

 集まったのは東京農業大学移住研究部、拓殖大学移住研究会、神戸大学南米研究会、中央大学ラテンアメリカ研究会、上智大学スペイン語研究会、東京農工大学海外移住研究会、早稲田大学海外移住研究会、神奈川大学ラテンアメリカ研究会のメンバーだった。以後、3回の会合を重ね、同年6月、6校の加盟校で学移連がスタートした。

 設立趣意書には「日本の海外への発展とその維持とは単に国内問題として取り扱われるべきではなく、国際視野のもとに世界人類、特に次の世代を担う学生の連繋協力によって解決しなければならない。―中略―新しい日本建設に当たり我々は斯くの如き視野に立ちつつ海外問題の研究とその解決とに努力し,且つ国際友愛精神による国際的寄与への第一歩を強く踏み出さんと欲するものであります。―中略―然るに海外移住に関する研究と推進とに関し、次の世代を背負う若き学生間に於いて、従来その全国的提携、協力が極めて欠ける点の多かったことに鑑み、茲に各大学有志の賛成を得て世界平和を祈念しつつ、日本学生海外移住連盟を設立せんとするものであります」

組織はできても資金がなく、研究・地方遊説

 志は高かったが、資金がなく、事務局機能もなかっため独自の事業はできなかった。内部では各研究会の活動報告、情報交換程度で他には「遊説」と称して連盟員が高校などに出向き、移住や海外事情についての話をする程度だった。
設立2年目、加盟校は10校程度に増え、海外協会連合会からの受託調査で「国内開拓と海外移住」という調査を行った。続いて海外協会連合会からの受託調査で「海外移住の効果」の調査も実施した。これら調査は後に外務省が大蔵省に移住関係の予算要求する際に資料として長年活用されたことは特記できる。

 当時の連盟員は、移住を志す者、南米事情、移住問題を研究する者の二つのグループが存在していた。この二つのグループに共通していたのは学生の代表を海外に派遣したいという思いが強かったことだ。だが、派遣費用が調達できず、その工面が連盟員の士気を高めるうえで急務だった。

岸首相との出会いが海外派遣の道を拓く

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講演会終了後、岸首相を囲んで記念撮影した連盟員

 この海外派遣を実現するために岸信介首相の南米訪問が役立たないかと考えた。59年に首相として初めて南米各国を訪問した岸首相の訪問日程が公表された時点から第3代委員長だった拓大の葛西清忠は、岸首相を講師に「南米事情講演会」を企画、その実現を目指した。
誰もが実現しないと考えたのだが、紆余曲折はあったものの、同年9月18日、東京・神田共立講堂の約2300席を満席にして行われた。翌10月、岸首相は連盟員十数人を南平台の首相公邸に招き食事会を開いた。その席上、学生は南米への派遣団送出を懇願、同年12月、3人の連盟員が「南米親善使節団」として海外派遣が実現した。
この年から翌60年、日本は日米安保条約をめぐって全学連が中心となり大規模なデモを繰り返し、60年、安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り内閣総辞職をせざるを得なくなった。
岸首相は、学移連の学生たちに海外派遣の道筋をつけ、その一方で全学連の学生たちの安保反対運動で辞職せざるを得なかった。奇妙な巡りあわせだった。

伯国始めカナダにOBが数多く移住

 学移連は、この派遣がきっかけとなり、60年から日本海外協会連合会(現JICA)から補助金を得て南米へ実習調査団を派遣、その後は地域もカナダや各国に広げ92年まで実習生を海外に送り続けた。その数、約264人。最盛期の加盟校は63年には50校にのぼった。また、OBの海外移住は住所が確認されている人だけで、ブラジルを中心に南米各国に約160人、カナダに約20人となっている。
また、OB会はブラジルが最も歴史が長く、続いてカナダ、日本にも設立され、それぞれ交流を続けている。特に、学生時代の活動を生かして国内で暮らしたOBたちは、退職後の現在、様々なボランティア活動を行っている。
(敬称略)

連盟員の精神的支柱 農大・杉野忠夫教授

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杉野忠夫顧問

 学移連を語るとき、忘れてはならない人がいる。学移連初代顧問会会長を務めた東京農大の初代農業拓殖学科長の杉野忠夫だ。

 「見学的調査の時代ではなく、開拓者と苦楽を分かち合い、自らもその戦列に加わるインテリを必要としている時代である。移住連盟の最大の狙いがそういう人間形成を目的とし、そういう歴史的使命の達成に遭達するならば、将来の職種の如何を問わず、自らを脱皮する為に、自らを鍛える事が絶対必要ではないだろうか。真実の道は容易ではない。検討を望むや切!」と言い、「神のごとき愛と英知に満ち、ゴリラのごとくたくましき生命力を持った人間たれ」と激を飛ばした。

 また、「君、開拓という仕事は面白いよ、男の命50年の間にゼロ世紀から努力次第では、20世紀までの2000年の歴史を再現できるよ」「Work before study」など巧みに学生を鼓舞し、学移連へと導いた。

2018年1月1日付け

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