【2018年新春特集】料亭「青柳」の群像 交差するコロニアの生き様

料亭「青柳」の群像 交差するコロニアの生き様
料亭「青柳」の群像 交差するコロニアの生き様
福井県人会が日本の海上自衛隊の歓迎会を開いた際の、店の入口での記念撮影(中島さん提供)

 「コロニアの不夜城」、「カーザ・デ・パパイ」、「ゲイシャ・ハウス」、「青柳学校」、「夢破れた女性たちの駆け込み寺」……。様々な異名を持ち、節々で話題に上がる、料亭「青柳」。『戦後移住の50年』(ブラジル・ニッポン移住者協会・出版)には、サンパウロ人文研理事(当時)の鈴木正威氏のこんな記述まである。「戦前の新聞記者は、無冠の帝王を気取り、自由放埒(ほうらつ)で公私のケジメにはルーズ……。記者仲間を誘い合って料亭『青柳』に繰り出して痛飲し、代表がたとえば大阪商船の支店長に電話をかけて一緒に飲もうと持ちかける、相手も心得たもので、都合が悪くていけないから勘定はツケておいていい、と答える、そういったいわばたかり酒は日常的といわれていた」。バールでフランゴ・パサリーニョ(鶏の唐揚げ)をカジり、1リットル10レアル余りの「スコール」(ビール)の瓶をプラスチック製のテーブル上に並べる今の記者からしたら、幻のような話だ。既に「青柳」が店をたたんでから45年余。当時通っていた人から働いていた人、暮らしていた人、さらにはそこで生まれ育った人まで、貴重な証言を集めることができた。そうした人々の記憶と資料を頼りに、料亭「青柳」の実像を手繰り寄せる。(本文中一部敬称略、河鰭万里記者)

◆「パパイは立派な人だった」

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同じ時のものと思われ、建物の外観、松の植え込みも映っている(中島さん提供)

 「温厚な人」「腰の低い人」「恵比寿顔」「いつもニコニコして」「仏のような人」…とにかく誰に聞いても、みな異口同音に「青柳のパパイは立派な人だった」と語る。人間、好き嫌いはあって当然のことだが、没後40年近くが経過した今も、これほど褒められる人は珍しい。

 1979年に在伯福井県人会が発行した『ブラジル福井県人発達史』(参照部分の執筆者は江崎政吉)によると、「青柳のパパイ」こと、青柳三郎は1895年生まれで、「(福井県)丹生群西田中の素封家(そほうか)―内藤家の三男坊」。東京四谷の青柳米問屋に婿養子入りして家業を継いだが、1923年の関東大震災で打撃を受け、翌年に自由渡航で渡伯した、とある。後に料亭の名と共に知れ渡った「青柳」は、婿入りして継いだ苗字だった。

 青柳三郎は渡伯後、米の仲買業を始めるも、上手くいかず、総領事公邸の炊事係となったという。「若い頃から大のウドン好きで、ひまをみてはコンデ・デ・サルゼーダス街にあったウドン屋『魚よし』に通っていたが、それが縁で店を引きうけ『青柳』という看板でウドン屋を開業。これが料亭『青柳』の発端である」(江崎)。

 半田知雄著の『移民の生活の歴史』(人文研出版)、188ページに描かれている、1910~40年ごろのコンデ街周辺の図にも「青柳うどん屋」の文字が確認できる。この頃にタバチンゲーラ街で丼物屋をやっていたとの証言もあるが、定かではない。それから戦時中にコンデ街やタバチンゲーラ街の邦人立ち退き命令を受けて、ビラ・マリアーナ区のドミンゴス・デ・モライス街に移り料理屋を始めた(一部、ルイス・ゴエス街との記述もある)。

 後に日系社会に知れ渡った、ジャバクアラ区ジェネラル・ヴァルドミロ・デ・リマ通りの508番に料亭「青柳」を構えたのは47年。

 「終戦と共に三階建新築1千コントスで、ジャバクワラ(ジャバクアラ)奥へ青柳が引越した……。日本間が8、西洋間が2、所謂(いわゆる)日本趣味の庭園に、おさだまりの5重の塔や石燈籠もたてた。松の植込、金魚の池も造った。美女給(トテシャン)の敷も30有7……」。(コロニアの料亭物語、『移民四十年史』、香山六郎著、49年発行)

 「ジャバクアラの森の一角、広大な土地に総二階の豪壮な建物を構え、優雅な日本庭園を作って移転したが、戦時中、日本語禁止の中で『青柳』だけは“聖域”となっていた」(江崎)ともある(『戦時中』という表現は終戦後の混乱期を含めた意味合いだと思われる)。

 2階建なのか3階建なのか、微妙な食い違いもあるが、1階がダンスホールのようなサロンになっていて、2階には和風の畳の座敷があったというのは、多くの証言による。余談だが、この「庭」では、ワニを飼っていたとか、亀に猿、たぬきに鯉(こい)にアラーラ(インコ)、パヴァオン(孔雀)が野生も含めて、いたという話もあり、冷静に考えて、ただの「日本庭園」で済ませて良いのかは怪しい。

◆駆け出しの演奏家たち

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『移民の生活の歴史』(半田知雄著)、188ページの図「日本移民のオアシス、コンデ界隈(1910~1940年)」コンデ・デ・セルゼーダス街に「青柳うどん屋」の文字が。

 1階のサロンで、60年代半ばから演奏していたと語るのは、ラジオ・サント・アマーロの音楽ディレクターを務め、在聖日本国総領事館の広報文化担当職員としても働いた、音楽家の坂尾英矩さん(86、神奈川)。「上村英雄さんに呼ばれて」からピアノを弾くようになったという。

 バンドのメンバーと楽器編成は年月と共に多少入れ替わったが、ここで演奏をしていた音楽家として、以下の名前が挙がる。生前、全国カラオケ指導協会ブラジル総本部長を務めた、コロニアの作曲家・島田正市氏。戦後の日系社会で自身の名を冠した楽団を率い、プロとしての音楽活動の先駆者だった上村英雄氏。日本のビッグジャズバンド「スマイリー小原とスカイライナーズ」でサックスも吹き、後に小説家となる醍醐麻沙夫(だいご・まさお)氏。そして現在も聖市で旺盛にカラオケの指導を続ける広瀬秀雄さん(74、神奈川)。日系社会の音楽・歌謡文化を代表する面々だ(加えて非日系の2氏、シンガー・ソングライターのベベートと、ロイという名のドラマーも演奏していたという)。

 坂尾さんと広瀬さんによると、毎晩のように夜10時から深夜2、3時頃まで演奏し、音楽の分野は多岐にわたった。ジャズやサンバ、マンボ(キューバのダンス音楽)などの音楽。加えて60年代の日本の流行歌も。特に「東海林太郎の曲はよく演奏したなあ」と坂尾さんは懐古する。

 広瀬さんは、坂尾さんと同郷の出身で、横浜の名門・翠嵐高校の後輩にあたる。61年に坂尾さんの呼び寄せで渡伯した広瀬さんは、兄・醍醐氏の洋服店を手伝っていた。当時ポ語もわからず、コミュニケーションを取れないことを気にしていたという。

 「それで言葉がいらないって言ったらバンドしかなかった」。

 それからブラジルの音楽協会「オルデンドス・ムジコス・ド・ブラジル」の丸山昌彦氏の下で勉強して資格を取得し、68年頃にバンドに加わった。初めの頃は、編成の都合で初めてウッドベースを弾くことになり、適当に弾いてごまかしていたとか。「ドラムのやつにバンゲイロ(知ったかぶり)だと言われてたけど、ハーモニーは分かっていたから、段々と慣れたよ」と笑う。

 渡伯前に早稲田大学のクラブでデキシーランド・ジャズをやっていた広瀬さんは、「演歌もやったことなかった」という。それが現在はカラオケの指導を職業として続けているのだから、「青柳」での演奏活動は一つの広瀬さんの人生の転機とも取れる。

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