キナリー出身の川田さん㊤ あめりか丸同船者会に初参加

キナリー出身の川田さん㊤ あめりか丸同船者会に初参加
来聖していた川田信一さん

移住地時代は狩猟が心の拠り所に

 【既報関連】23日にサンパウロ市リベルダーデ区の群馬県人会館で開催された第41回「あめりか丸」同船者会に、ロンドニア州ポルト・ベーリョ市から初参加した川田信一さん(75、長崎)。アクレ州リオ・ブランコ市から南に24キロの距離にある「キナリー移住地」の第1陣入植者として家族に連れられ、17歳で同移住地に入植した経験を持つ。その間、マラリアに罹患する移住者が続出した開拓地での不慣れな生活に耐えながらも、狩猟(しゅりょう)を行うことが心の拠り所だったという。川田さんに、移住地での生活や日本の高校時代に憧れた先輩への思いなど、当時のことを振り返ってもらった。(松本浩治記者)

 長崎県長崎市で4人兄姉の3男で末っ子として生まれた川田さんは1945年8月9日、3歳の時に長崎市に投下された原爆の被害に遭っている。戦後4、5年して亡くなった次兄は、米軍機が原爆を落とす瞬間を双眼鏡で見ていたそうだ。

 「私たちの家は山陰にあったために原爆の直接の被害は免れましたが、子供ながらに衝撃波が凄かったことを覚えています。原爆が落ちた瞬間、物凄い音がして私は母の元に走って抱きつきましたが、家の中は窓ガラスが全部割れて飛び散り、めちゃくちゃになっていました」

 その間、市内に留まらざるを得ず、父と長兄の敏之さん(86、マナウス市在住)が大学病院に入院していた祖母の安否を尋ねたが、原爆の被害で建物の下敷きになり、既に亡くなっていた。

 原爆投下から4日目に汽車の切符を手に入れることができた川田家族は、父親の実家で佐賀県との県境の長崎県松浦市今福町に移り、4畳半の部屋に祖父夫妻を含めて6人が一緒に住んだという。

 同町から佐賀県内の農業高校畜産科に通うようになった川田さんは、文芸部、生物部、山岳部、海外移住研究会を掛け持ちしてクラブ活動を行い、その中でも特に文芸部の1年先輩の知的な女性に憧れを持っていた。

 次兄は既に亡くなっており、長兄の敏之さんは当時、独立して長崎市内の炭鉱内にあるスーパーマーケットの事務員として働いていた。しかし、経済不況のあおりを受けて57年頃に炭鉱は閉山。失業して夫婦ともども今福町の祖父の家に戻ってきていた。

 そうした時に長崎県庁から舞い込んできたのが、ブラジルのキナリー移住地行きの話だった。長兄の敏之さんが家長となり、父母、兄嫁、姉を含めた家族6人で59年、「あめりか丸」で渡伯した。

 同年4月9日にパラー州ベレン市で下船後、さらにアマゾン地域西部にあるリオ・ブランコまでアマゾン川を遡上。同年6月にやっとの思いでキナリー移住地に入植したが、建っているはずの家は出来上がっていなかった。

 仕方なく、自分たちで家を建てるまでの約2カ月間、州政府が管理する合宿所の建物に分散して住んだという。

 渡伯に際して、憧れの文芸部長からは「踏まれても踏まれても、雑草のごとく生きてください」というメッセージをもらったことが、今でも忘れられない思い出となっている川田さん。しかし、キナリーでの生活は「日本とは比較にならないほど酷かった」と言い、生活も思い通りにならず、入植した移民たちがマラリアの被害で倒れる中、帰るに帰れない状況だった。

 自身もマラリアには100回近く罹っているという川田さんは、「マラリアに罹ると熱が40度以上出て頭がやられますが、罹るたびに頭のネジが緩むような思いでした」と苦い思い出を振り返った。(つづく)

2017年4月29日付

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