グァタパラ移住地の記憶㊤ 「どんなに大変でも慣れる」

グァタパラ移住地の記憶㊤ 「どんなに大変でも慣れる」
式典であいさつに立つ茂木会長(写真中央)

入植当時の開拓生活を振り返り

グァタパラ移住地の記憶㊤ 「どんなに大変でも慣れる」
移住地入り口付近。「ようこそグァタパラ移住地へ」と書かれた看板が訪問者を迎える

 7月22、23両日に開かれたグァタパラ移住地入植55周年祭及び収穫祭の式典で、グァタパラ農事文化体育協会の茂木常男会長はあいさつに立ち、「1962年に(山形、茨城、長野、岡山、山口、島根、佐賀の)7県人が入植し……平地の水害問題もあったが一致団結して……養鶏を基幹産業として55周年を迎え……教育にも力を入れ、(同地の子弟の)多くが大学へ進み、未だ帰ってこないが、退職後に帰っている理想の移住地としたい」と歴史を振り返り、現在の課題と展望を語っていた。

 記者が同地の誰に聞いても、大抵が異口同音にこうした歴史の概要を語った。

 資料を参照しながら少し補足すると、同地には81年に約120家族が住み、全盛期には約140家族、現在は92家族が暮らしている。同移住地の特徴は、計4つの分譲地に分かれていたこと。主に灌漑水による水田米の栽培をする低地があり、丘地部分は、宅地、果樹(柑橘)栽培地、雑作栽培地の3つだ。モジグアスー川の灌漑用水を取り入れる設備が計画されたものの、理論通りにはいかなかった。

 丘地が3つに分譲されていたために、労力の効率が悪く、低地の水田栽培は米の値段に比較して灌漑用水料が高くて採算割れになり、また低地の維持、管理費が高く、低地に関心のない入植者が管理維持を怠ったために、低地に専念する人がその分まで維持、管理費を負担しなければならなかったと言われている。

 その後、徐々に米作、養鶏、養蚕の「三白産業」へと推移していき、現在はレンコンやシメジ、カンナ(サトウキビ)などの栽培も行われている。

 以上のことが同移住地の表面だ。しかし、実際には、入植当初のそれぞれの移住者たちの生活や人間模様はどうだったのか。

 22日の式典で功労者表彰を受けた坂本恵美子さん(86、福岡)が、同移住地建設の前からグァタパラ駅の近くで暮らしていた例を別とすると、同移住地の建設に際して最初にやって来たのは南米産業開発青年隊だ。

 第7期生の菊地章さん(故人)と一緒に同地に入った夫人の菊地敏江さん(82、東京)によると、隊員ら約30人が現地入りし、5軒程の家に住み、道路整備などを行ったという。「ヘビもよく出たし、夜は外でバサバサッと音がして、外に出てみると、コウモリがぶらさがっていた」と振り返る。6期生の鈴木源治さんは、「ヒョウも出たし、ヘビは頭を取って皮を向いて、丸めて蒸し焼きにしてね。偉い人なんかが来た時にあげると、ほら、マムシなんかもそうだけど、精が出るからと喜ばれたよ」と笑いながら話していた。

 話は逸れたが、とにかく青年隊が入植に先駆けて土地を開拓していた。とはいえ、「電気もなく、土地もだだっ広くて移動は馬車だし、丘地の水で米を炊けば赤飯ができましたよ。赤土が流れてたから」と現在作成中のグァタパラ移住地50周年史の編集長を務める脇山謙助さん(69、佐賀)と、同じく編纂に携わる林良雄さん(66、茨城)は当時の状態を振り返る。

 脇山さんはこう吐露した。「人間は慣れる。どんなに大変でも、こんなもんだと」(つづく)

2017年8月3日付

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password