グァタパラ移住地の記憶㊥ 初期移民の苦悩「どん底を見た」

グァタパラ移住地の記憶㊥ 初期移民の苦悩「どん底を見た」
7月22日の入植55周年祭で展示されていた農産物
グァタパラ移住地の記憶㊥ 初期移民の苦悩「どん底を見た」
グァタパラ農業協同組合の会長を務める斉藤さん

 「10年で稼いで帰ろうというふうには移住前から考えていなかった」という脇山謙助さん(69、佐賀)。一家は全国拓殖農業協同組合連合会(全拓連)の呼びかけで日本の土地を売りはらい、全財産を処分。渡伯前にグァタパラ移住地の土地を買い、1962年11月に入植。募集要項には、霜はあっても農作物には害はないと書かれ、裏作もできると考えていたという。

 入植1年目だけは良かったものの、それ以降は不作が続いた。霜害(そうがい)や水害もあり、「結局のところ、地力が全然なかった」と語る。それに加え、機械の修理もできず、医師も年に1、2度巡回で診察する程度で、農薬中毒被害も出るなど、生活は過酷を極めた。

 そんな状況下で、「人間の本性が出た。どん底を見た」と脇山さんは話す。平地や丘地などで分かれている土地柄も影響し、移住者間でも軋轢(あつれき)が生まれた。

 第1陣として62年1月に入植した林良雄さん(66、茨城)は、「怒鳴り合いのケンカもあった」と話し、脇山さんは「土地ごととか農業種ごととかで集まって話し合うでしょう。大体それから酒が入るとダメ。もう、どうしようもなかった」と苦笑する。

 揉めたのは移住者同士だけではなかった。病気や精神的な負担で多くの家庭にも亀裂が入った。

 脇山さんも、入植3年目のことをこう振り返る。「親父がどこかに移ろうと言ったら、おふくろが体を張ってやめさせた。『どこかに行くくらいなら死ぬ』と言い張って」。そんな状況を見せられた当時17歳の脇山さんは、兄と共に父にこう言い渡された。「お前たち、これからはもう、やりたいことは何やってもいい」。

 脇山さんは、「何事も投げちゃいかんと思うしかなかった。別に自分のところだけが苦労したと言いたいんじゃない。みんなが、おんなじような状況だったから」と振り返った。

 現在、グァタパラ農業協同組合の会長を務める斉藤長一さん(67、山口)は63年6月、13歳の時に入植。妹の病気もあり、どこにも行けなかったと言う。入植から6、7年が経った頃に父と対立し、家出をした。

 渡伯時の船で知り合った人を頼り、ミナス・ジェライス州の茶道場で手伝いをするなどしながら身を置いた。「3、4カ月が経った頃、海外移住事業団(現JICA)の人が迎えに来たよ」。連れて行かれるように、帰宅した斉藤さんはこの時、20歳。脳腫瘍で父を亡くした。

 脇山さんは、グァタパラ移住地の事業計画そのものに関して、「本当は失敗だった。ただ、どこにも行きようがなかった」とこぼす。

 「でも脱耕者は…。」と記者が問うと、やはり少なからず居たという。3、4年目から脱耕者が出始め、60年にブラジリアに首都が移設された際には、約40家族がブラジリアに移っていった。

 最近になって脱耕した家族らと会うこともあると、脇山さんと林さんは話す。

 「再会の時、一体どんな気持ちですか」と記者がぶしつけな質問をすると、両氏は「うーん」と顔を見合わせて答えの言葉に悩み、「裏切られたような気持ちも?」と更に聞くと、林さんは「裏切られたっていう気持ちではない。ただ『あぁ、一緒にやっていけないんだなあ』っていう…」と神妙な面持ちを浮かべた。(つづく)

2017年8月4日付

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password