グァタパラ移住地の記憶㊦ 「苦労するのは当たり前」

グァタパラ移住地の記憶㊦ 「苦労するのは当たり前」
22日の入植55周年祭で展示されていた手芸作品や日本語学校の生徒らの作品

 過酷な状況のグァタパラ移住地の初期を生き抜いた脇山謙介さん(69、佐賀)は続ける。「ブラジルの飯が上手いなんて言う人もいますが、そんな余裕はなかった。食べるものが無いんだもの」。

 ただ、脇山さんらがこうして語ってくれたのは、あくまで同地の移住者それぞれの苦労を思ってのこと。「苦労するのは当たり前。みなさんよく耐えてやってきたと思います」と語る。

 後に「三白産業(養鶏、養蚕、稲作)」に推移していったのは、事業計画通りにいくような地力がなかったからだ。

 「(入植から)55年が経って、(苦労した)農業を避けて子供を(大学に行かせて)サラリーマンにする家庭が多い」と脇山さんは分析する。

 グァタパラ農業協同組合の斉藤長一会長(67、山口)も「個々によるが」と前置きし、「農業の利益がないと、親と対立する家庭が多い」と話す。

 「大規模な農場だと(子弟が)みんな帰ってくる。医者になろうが、弁護士になろうが、帰ってくる。事業化して人を使う側はね。小さい所や、あんまり人を遣っていないような所は後継ぎが回りにくい。結局、規模の問題。どんなことをやっても苦労はするし」と現状を語った。

 斉藤さんは、父を失ってから当地に腰を据え、イチゴやトマトなど野菜の農作の傍ら、74年から養鶏を始めた。兄弟の助力もあったが、「金がないから」養鶏を始めたという。当初は鶏の飼い方が分からず、苦労も絶えなかったそうだ。

 「コチア(産業組合中央会)が94年に潰れてから、一生懸命になって頑張ったよ」と笑う。

 ここ数年は20年ぶりに鶏卵の高値が続き、斉藤さん含め、グァタパラ移住地の基幹産業である養鶏農家には追い風だという。

 こうした話の後、最後に脇山さんはこう語った。「でもじゃあ、そうした子たちがサラリーマンになれば楽かというと、それもまた違うでしょう。ここ(グァタパラ)の人たちだけが大変だったかというと、これもまたそうでもないと思いますし」。

 7月22日のグァタパラ移住地入植55周年祭の会場でグァタパラ農事文化体育協会の茂木常男会長は「あと10年は1世が主体になって続いていく」と語っていた。同祭会場内にはグァタパラ日本語学校の生徒の習字も展示され、「信じる道」「希望」といった言葉が書いてあった。10年後、さらにその先の将来、同移住地の歴史を背負って立つ世代は果たして何を忘れ、何を引き継いでいくのだろうか。(おわり)

2017年8月5日付

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