【移民107周年】サンタクルース病院、その石碑の謎を解く 宇佐美 昇三

サンタクルース病院、その石碑の謎を解く
サンタクルース病院にある現在の「笠戸丸組三十週年記念碑」

開拓者の足跡は森の奥に消え わきを通るひとはだれも気づかない

 車の流れが絶えないサンパウロ市サンタクルース通り、その名をもつ病院が398番地にある。白亜の5階建て建築の顔にあたる半円形の車寄せは、リゾート・ホテルのようだ。病院の前庭には、小さな芝生に囲まれた石碑がある。高さ80センチ、幅130センチ、黒い碑面の中央に「笠戸丸組三十週年記念碑」と刻まれているのが、まず目につく。(写真1)

 1996年3月末、筆者はサンパウロ大学を訪ね、そのあと、この病院で「笠戸丸組記念碑」を撮影した。その頃、筆者は初のブラジル行き移民船「笠戸丸」(6167総トン)を30年あまりかけて調べていた。石碑の裏側には、4首の古歌と文学者島崎藤村の名前も刻まれていた。この碑を手掛かりに調べれば、初期農業移民の都市への移動状況、日本文学への関心の高さもわかるのではないか。そして90年前、情報が皆無のブラジルに、敢然と渡航して海外最大の日系人社会を築いた先人の足跡がみえてくるのでは、と考えた。

 帰国して碑文を検討すると、いくつかの謎が浮かんだ。移住百年祭の前年の2007年、筆者はブラジルを再訪、石碑を調べたが、謎は深まるばかりだった。

 以下、その謎を3つにわけて紹介する。[ulist style=”2″]
1)「笠戸丸組記念碑」にある移住者氏名の謎
2)「島崎藤村碑」の使用文の謎
3)「島崎藤村碑」が碑表ではという謎
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 碑の表裏というのは、3)で述べるので、今は仮に「笠戸丸組記念碑」を碑表、「島崎藤村碑」を碑裏とする。

[textblock style=”2″]1)「笠戸丸組記念碑」にある移住者氏名の謎[/textblock]
「笠戸丸組記念碑」は正確には「笠戸丸組三十週年記念碑」で「周年」に「週年」を当てている。碑文(囲み1参照)では1938年6月に初の日本病院として、このサンタクルース病院が完成(注a)し、笠戸丸の移住者有志が碑を建て、その名前を刻んだとある。しかし、その中には移住者名簿にない人の名前も散見された。これが第1の謎だった。

 「下表」は、その石碑に刻まれた人の氏名である。

 説明文に234人集まったとあるが、石碑には123人の氏名しかない。234人とは支援者も含んでいるらしい。皇国殖民会社員として笠戸丸で渡航した香山六郎(以下、敬称略)は著書『移民四十年』(b)と『香山六郎回想録』(c)で、この記念碑に触れている。笠戸丸移住者には契約による集団の農業移民781人と自由移民10人の2種類あった。その名簿は、次の8種だ(d)。名簿1は総領事館の「笠戸丸便・第1回伯刺西爾行移民名簿」で冊子『かさと丸』(移民50周年記念委員会編)に自由移民氏名とともに再録されている。名簿2は同書「配耕地別移民氏名」、名簿3は『移民四十年史』、名簿4は笠戸丸組でない人も含む移民史料館の『竹村第1回移民原簿』。名簿5は外務省の「報告書」、名簿6は笠戸丸航海中に移民会社が船内で作成の「弊社取扱いによる海外渡航移民名簿」で、その作成作業の混乱ぶりは『香山六郎回想録』にある。名簿7は香山六郎編『在伯日本人移殖民廿五周年記念鑑』。名簿8は『ブラジル沖縄県人移民史』で沖縄出身者に限られるが個人消息に詳しい。

身代わり渡航という便法
 8種の名簿には食い違いがあり、一致するのは791人中111人(14%)である。ラジオもワープロもない明治時代、申告者はお国訛りを使い、記録者は手書き、転写するうちに誤字もでよう。笠戸丸組の農業移民は家族連れに限られていたので、便法として他人を家族のように装った「構成家族」や、身代わり渡航(旅券に肖像写真がない時代)のため、別名で入国した人もいた。しかし、それから30年、石碑に刻むなら、だれしも本名をと希望したことだろう。そこで筆者は碑文に刻まれたものを本名として8種の名簿と比較した。単純な誤記や、縁組で改名が明らかなものは表に「〇印」とした。すると114人分がまず本名と認められた。それでも「備考欄」には別表記の可能性が残った。「▽印」は、同姓同名がいる人、改姓や、誤記の疑いが高い人だ。「?印」の3人の女性は、だれとも推定できず、笠戸丸組以外の可能性を思わせた。表の91番児玉良一(明治28生)は、ブラジル到着時12歳、「久保タヨ(山口県、明治21生)と結婚したか」と書いたとき、いつもお世話になっているJICA横浜・海外移住資料館の渡邉由紀子さんから「児玉良一は、笠戸丸組の鹿児島出身構成家族のタカと結婚した」と資料名を教わった。それだと湯通堂タヤ(明治21生)の可能性が高い。資料で「上陸後、すぐ名目上の夫と別れた」と児玉自身が話していた(e)。次に98番太田亀(明治17生)の妻と思われる従妹・新垣カマト(明治23生)は、早くにアルゼンチンに渡っている。他のカマト2人は同姓の金城カマト(明治19生)と(明治12生)で、後者は1933年までに帰国し、亡くなっていた。さらに61番の比嘉牛(明治14生)の妻ムタも該当者がない。別の比嘉牛(明治14生)は妻カメ(明治17生)とアルゼンチンに移住した。アルゼンチン組には、ブラジルに再入国例もいるが、この夫妻にそうした情報はなかった。

 こうして2つの相反する謎が残った。

 (謎1)碑文の人名はすべて笠戸丸組の人である。もっと妻帯者がいるはずだのに男性の単身者名が多い。だから3人の女性は、笠戸丸組の人で改姓名をした。元の姓名は何だろう。

 (謎2)碑文の人名は笠戸丸組とは限らない。3組の妻(養母かも)は、笠戸丸組でない謎の女性だ。第2船旅順丸名簿もざっと見たが、それらしい人はいない。

 この碑に記される人の基準は厳密でない。たとえば1番の「祖人・水野龍」は、皇国殖民会社社長で笠戸丸では移民引率者だったが、すぐに帰国した。だから笠戸丸組移住者とは言えない。ちなみに香山六郎によると水野龍は、記念碑建設当時は、ブラジルに在留、この碑文を揮毫し、サンパウロ市の内畑石工が刻字した(f)。

 以上の謎は残るが、この石碑は笠戸丸組の墓標集ともいえ、非常に貴重だ。

[textblock style=”2″]2)「島崎藤村碑」の使用文の謎[/textblock]
笠戸丸記念碑の裏側には、島崎藤村の名前と印のある碑文がある。これを「島崎藤村碑」として検討する。その内容は「囲み2」のようだ。

 活字化すると、読みやすいが、碑面だと崩し字や変体仮名のある藤村の筆跡を刻んであるので読みにくい。半世紀を経て、擦り傷と文字が区別しにくい。「し」に「志」が使われ、「こ」には「古」、「が」は「可+濁点」が使われている。昭和10年代だと、こうした文字で手紙を書く人はいた。しかし(写真2)のように「使志(て)」は「使」に横棒、「志」は「士」と「心」が離れ、特徴がある。左側は「藤村志(るす)」。「藤」は、署名なので崩れている。

 藤村全集の「巡礼」の一節「置土産」を読んだ。藤村は出発前に、ブラジルへの置土産として大和古歌四首を選び、熱海の旅館で揮毫した。全集の文は漢字仮名交じり文で、句読点、ルビもある読みやすい文だった。

 たとえば「天(あま)さかる鄙(ひな)の長路(ながち)ゆこひくれば明石の門(と)より大和島見ゆ」となっている。

 藤村がブラジルを訪れたときの「聖州新報」1936年9月26日付けに藤村が持参した揮毫の現物写真がある(写真3)。碑文とは改行点が違うが、同じ変体仮名や、崩し字になっていた。なぜ、ことさらに読みにくくしたのか?これが第2の謎だ。

 島崎藤村は、ブラジル二世、三世の日本語教育にも関心が強かった。日本文化を伝え残すため、「石碑の裏にはローマ字で同じものを刻み、日本病院の敷地に建てる」という見通しを聞き、満足して帰国、翌年6月、外務省で藤村は「いずれ(石碑の)写真でも送ってこよう」と報告している(g)。

 しかし、藤村南米訪問から2年近く、揮毫はむなしく放置された。病院が建築中だったこともある。だが、要は「島崎藤村碑」設立への動きが高まらなかったのである。香山は「藤村は自分には冷たく感じた」と書いている。

[textblock style=”2″]3)「島崎藤村碑」が碑表ではという謎[/textblock]
 「島崎藤村碑」の碑表説を筆者は1996年に聞いた。石碑は第二次大戦中、撤去され、1948年に現在の場所に再建された(h)。戦前と場所が変わっただけでなく、碑の向きも反転して「笠戸丸組記念碑」が、表側になった。

陽の目を見た戦後
 この石碑を藤村の同郷、長野県出身小滝貴与美さんが手入し、それが話題になったのは1985年8月22日から24日付のサンパウロ新聞と日伯毎日新聞の記事だった。(写真4)は戦前の1941―2年発行の『ブラジルに於ける日本人発展史』上巻の口絵にあるもので「笠戸丸組」がカメラ向きにある。だが「島崎藤村碑」は掲載されていないが(写真4)だと向って右に病院の半円形の車寄せが写っている。つまり、病院玄関から見れば、「島崎藤村碑」が目に入る。現在の石碑は玄関に向かって左側で、「笠戸丸組記念碑」が、まず目に付く(略図)。

石材店を訪ねて
 筆者は(写真5)の「島崎藤村碑」が向って右側が高く、そこに4首の古歌が頭を揃えていることから、この石材が選ばれた時、まず4首と説明文、藤村の署名が刻まれ、「島崎藤村碑」は碑表だったと素人なりに推測した。江戸時代から続く石材店進藤洋一店主(青山霊園北)は、その考えも納得できる、石碑は、石工の「ツキノミ」で彫ったとは思えない、など重い道具を手に写真の観察を述べてくださった。

石材は「末広がり」に使う
 一方、多磨霊園で創業明治時代という大きな石材店では「笠戸丸組記念碑」の方が、先ず刻まれた可能性があるという。理由は石碑の形が「末広がり」になってためだ。これは「囲み1」の笠戸丸組記念碑文に「大和古歌を刻し」とあり、「島崎藤村碑」が添え物に扱われていることと一致する。

 三十周年を祝う笠戸丸組がまず記念碑を企画した。一方「島崎藤村碑」を推進する組は、建設を実現できる好機として揮毫を提供したのではなかろうか。石碑建設には費用が掛かる。「島崎藤村碑」が戦前、表面にして建てられたのは、揮毫者藤村に対する敬意、出資者の力関係が想像されるが、今は第3の謎である。設立時の新聞記事を探しているが、当時の「聖州新報」は日本病院関連の記事しかない。日本病院は1926年に早くも土地取得、1936年設計完了・起工、38年外形完成、39年4月落成式を行った。この間、建築材料の輸入関税、金銭費消、医師資格欠如などの問題で多難だった。だから「笠戸丸組記念碑」にあるようにまさしく1938年6月18日に碑が建てられたかどうかは疑わしい。香山六郎は回想録で開院前日の1938年6月としているが、外形完成の誤記だろう。

 「笠戸丸組記念碑」「島崎藤村碑」は、それぞれの研究者により、一方を重視、他方を軽視する傾向がある。日本では北川忠彦が後者の立場の研究があり、インターネットでも読める。しかし、その論題の「萬葉碑」は誤解を招く。石碑の古歌4首のうち萬葉集歌は柿本人麿1首だけだ。香山六郎の『移民四十年史』にある「大和五聖歌人」や「日本六歌仙」はどちらも、古典に無頓着な間違いである。

藤村の真意はなんだったか
 写実を重んじる藤村は、叙景的な古歌を選んだ。二世、三世に日本文化の精髄を伝えようと意図した。それはわかる。しかし、なぜ、ことさらにわかりにくい文字を使い、半端な説明文だけで「置土産」にしたのか。その結果、「置土産」はあまりにも高尚なものになり、すぐには受容されなかった。童話も書き、日本語教育に熱心だった藤村なら、もっと、やさしい題材を選び、楷書で書くという道もあったはずだ。そうすれば、早くに独立した石碑になり、現地の人に親しまれるものなっただろう。

結び:過去は未来に発展するための土台だ。この石碑は笠戸丸組の個人の足跡と、日本文化を伝えようとした藤村の志、日系社会の戦争中の処遇がみえてくる貴重なものだ。この拙文が、今後の研究に役立つことを祈って筆を置く。

 注釈
(a)病院の落成式は1939年4月29日。1938年半ば病院の外形が完成。『ブラジルに於ける日本人発展史』(下巻)(永田稠〈しげる〉著・発行)1942年、182―183頁。
(b)香山六郎編著・発行「移民四十年史』1949年、209頁。(藤村筆を裏面に)と明記。
(c)『香山六郎回想録』サンパウロ人文化科学研究所、1976年、404―405頁。
(d)8種の名簿を比較した拙稿は「サンパウロ新聞」2000年12月22日号と同2001年1月5日号。または「駒沢女子短期大学『研究紀要』」(2001年)第34号、45―53頁を参照されたい。
(e)池田大作・児玉良一『対談・太陽と大地 開拓の曲』第三文明社、1991年、77―78頁。
池田が対談中に「夫人はタカさんでしたね」といい、児玉は聞き流している。
(f)『香山六郎回想録』404―405頁。笠戸丸組氏名を「イロハ順で」は記憶違い。高齢の水野龍が123人の名前を揮毫したかは不明。「コンデ街坂下の石屋内畑氏が」と記すが『廿五年鑑』85頁に「石工・内畠祥光、内畠留吉(東京)」があり、誤記か。
(g)島崎藤村『南米移民見聞録』外務省アメリカ局移民問題研究会、1937年6月。
(h)『移民四十年史』1949年、429頁の写真説明。

2015年6月20日付

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