チエテ移住地の現在 ㊤

チエテ移住地の現在 ㊤
ACEPで相談役を務める山本進さん

入植90周年の節目を迎え 当時の歴史と現状を知る山本進さん

チエテ移住地の現在 ㊤
移住地内のアルゴドン畑(提供=ペレイラ・バレット移住資料館)

 1928年に国策移住地として建設されたサンパウロ(聖)州ノロエステ線にあるチエテ移住地(現・ペレイラ・バレット市)。かつて日本人が開拓した同地には現在、人口約2万5000人のうち、日系人は約10%の2500人が在住。当時入植した1世は90歳以上になり、日系社会では2世以降の人々が中心となって活動している。今年で90周年を迎えた同地について、当時を知るペレイラ・バレット文化体育協会(ACEP、秋末健会長)で会長職を最多の5回務め、現在は相談役を担っている山本進さん(82、2世)にその歴史と現在について話を聞いた。

 同地は、海外移住組合連合会の梅谷光貞専務理事を日本側代表として、地主ジョーナス・アルヴェス・デ・メーロ氏から土地を購入した。同地買収に協力した輪湖俊午郎氏を現地責任者として開発に着手し、29年6月1、2日に大成景毅、竹内喜一、吉村權六、石田広助諸氏の4家族がアリアンサ移住地を経て初めて入植。同年には聖州バストス移住地、アリアンサ移住地、パラナ州トレス・バラス移住地(現・アサイ市)と同じく大量の移住者を送り込む計画だったが、「マラリアの巣窟」という評判から計画の400家族を遥かに下回る34家族のみが入植したという。

 その後は徐々に移住者が増加し、「チエテ十年史」によれば36年には1073家族が在植していたが、その後は減少。当時はノーボ・オリエンテ地区を中央にベラ・フロレスタ地区、サン・ジョゼ地区の3つの地区に分かれていた。38年にはノーボ・オリエンテ地区が、当時の政治家のルイス・ペレイラ・バレット氏に敬意を表して「ペレイラ・バレット」へと名前が変わり、同時に市へと昇格した。なお、現在は同市以外の2つの地区は姿をなくしてしまっている。

 「チエテ十年史」以降から戦後までの状況は、戦時中に日本語の資料が焼かれたため少ない。同地に35年、13人の大家族で入植し、翌年に生まれた山梨県出身の山本家5男の進さんに幼少期の話を聞くと、「あの頃は綿、養蚕などを主に作っていました。各地区ごとに日本人会があって責任者がおり、それをまとめていたのが日本人連合会だった」と振り返った。

 当時は戦時中で、ブラジルで生まれの進さんは日本語を学んだことはなかった。「自分は小学校3年生の時に日曜学校が創立され、2年間通うまで日本語を学んだことはなかった」という。後にACEPで会長職を務め、その時には独学で日本語を学び、日本語能力試験2級までは取得したそうだ。

 進さんは中学校までをペレイラ・バレット市で通い、高校と大学はアラサツーバ市へ通った。「自分はペレイラ・バレット市に出来た中学校の第一期生だった。その頃は高校からは別の市で学ぶのが普通だった」と進さん。大学は「ブラジルで生まれたから、大学は出ておいた方が良い」という兄弟に学費を援助してもらって通い、当時では珍しく歯科医となった。同級生で大学まで進学したのは40%ほどで、他は職業学校に通う人や学校の教師を務めたり、同市内で日本食や電気屋、クリーニング屋などの店を開く人も多かった。

チエテ移住地の現在 ㊤
同市の入植10周年祭(提供=ペレイラ・バレット移住史料館)

 今は殆どの同級生は聖市内や聖州郊外、パラナ州に引っ越しており、同地には住んでいない。「百姓をやっていても、10年連作すると農業できなくなる。多くの人が他所へと移ってしまったね」と進さんは少し寂しそうに語る。

 今年、同地は入植90周年を迎えた。同地ではACEP主催の開拓先没者慰霊ミサが、毎年恒例となっている盆踊りの時期と合わせた7月28日に、同市の聖アンデレ教会で行われた。同地で高齢者支援を行っている玉置幸子さん(67、大阪)によれば、ミサには一般の参加者、来賓らや各宗教団体の代表者らの出席のもと、日本人移民110周年と合わせて先人の功労に感謝しつつ、厳かに執り行われたそうだ。また、市の創立記念日の8月11日には、90周年の入植祭が市を挙げて盛大に祝われた。(有)(つづく)

2018年12月20日付

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