デカセギ子弟たちの歩み② 中沢カロリーネ夏美さん㊦

デカセギ子弟たちの歩み② 中沢カロリーネ夏美さん㊦
日本の小学校に入学したばかりの中沢さん(写真中央、提供写真)

「自分の国」と「ふるさと」

デカセギ子弟たちの歩み② 中沢カロリーネ夏美さん㊦
現在の中沢さんと母(提供写真)

 日本で生まれたものの、生後8カ月でブラジルの祖父母の元に預けられ、4歳から9歳を日本で過ごしながら「日本の友達とはなんか違う」と感じていたという中沢夏美さん(26、4世)は語る。

 「(サンパウロの)空港に着いて、お母さんの親戚が迎えにきてくれたんですね。そこでジアデーマまでの車の中で、ずっと景色を見てたら、がっかりして……」。

 今となっては見慣れたものの、その時の壁の落書きや汚れが目につくような街の光景は、今も忘れられないそうだ。それが単なる風景ではなく、当時の落胆した心境から浮かび上がる情景だったことは想像に難くない。

 日本では見慣れなかった黒人にも不当な恐怖を覚え、近くを通るだけで母の手をぎゅっと握りしめた。それからジアデーマ市の公立学校を見学に行けば、窓ガラスが壊れていることにも、じろじろと見られることにも馴染めず、「本当に怖かった」と回顧する。

 それから1年間は学校に通わず、学校教師を退職したばかりの母の知り合いの家宅で週3回、各3時間程度、ポ語を習った(この元教師はポ語を外国語として教えた経験はなかったという)。

 その後夏美さんは、父の出身地であるマリリア市に移り、中学、高校を卒業する。動詞の活用や、名詞の性を間違えたりといったこともあったが、段々と年を経るごとにポ語での学習にも順応していったと振り返る。作文が当時は苦手だったが、勉学に出遅れることもなく、今でも親交の続く友人にも恵まれた。

 学校では日本人扱いを受け、からかわれるようなこともあったが、苦にも感じなかったという。「(自分が日本人なのかブラジル人なのかを)気にするのが普通かもしれないけど、私は悩まない。今でもはっきりしていない気がする」と、アイデンティティーに国境線は引けない。

 それから専門学校を経て、聖州アシス市の州立パウリスタ大学(UNESP)の文学部に進学。外国語選択の項目に「日本語」の文字を目にした時には驚き、「日本語と再会したなあ」と、懐かしさが込み上げてくるのを感じた。

 2013年から1年間、日本の創価大学へ留学した際には、格別な嬉しさを噛み締めながら、空港の「おかえりなさい」の垂れ幕を見つめたと語る。

 「(日本が)自分の国とは思ってなかったけど、元々住んでいた所だから。日本のにおいも懐かしかった。ブラジルにいると、(家族もいるから)自分の国という感覚はあるけど、ふるさとっていう感じはしない」と、独特な帰属意識を言葉にした。

 現在夏美さんは、日本語教師もしながら大学院に通い、日本の現代文学のテキスト(文章)を通じた日本語教育法の研究に日々励んでいる。

 「学校に関する仕事をやりたい」と思い入れを語るのは、自身の生い立ちとも切り離せない。日本の保育園でも保母との別れに泣き、日本の小学校でも放課後に担任教員の手伝いをしながら仲良く過ごした思い出の数々を忘れられず、「先生」という存在が子どもの時から大きかったと語る。複雑な生い立ちが編み上げた独特な郷愁のようなものが、こうして夏美さんを幼少期の時間を追いかけるかのように、突き動かしているのかもしれない。(つづく、河鰭万里記者)

2018年4月10日付

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