デカセギ子弟たちの歩み③ 斎藤マルシオ清さん㊤

デカセギ子弟たちの歩み③ 斎藤マルシオ清さん㊤
斎藤マルシオ清さん

デカセギ子弟から二女の父に

 斎藤マルシオ清さん(38、3世)は、デカセギ中に生まれ育った娘二人を、現在はブラジルで育てる父親だが、かつては自身もデカセギ子弟だった。12歳の時に両親に連れられ、弟と共に広島県安芸(あき)郡に移ると、公立中学校で唯一の「外国人」としてすぐに有名になったという。

 「日本に行く予定もなく、ブラジル人として育てられていたから、日本語もあいさつ(ができる)程度でした」と当時を振り返る。日本の中学校に入学する直前にひらがな、カタカナを習い始めたばかりだったそうだ。

 学校では、授業がない先生がサポート(補助)をしていたそうだが、しっかりとした支援はなかった。英語と数学はまだしも、社会や国語は3年間、全くついていけなかったという。「3年で帰る予定だったから、日常生活ができればいいと思っていました」。

 それでも12歳から身体が大きく、バスケットボールやサッカーで並外れた身体能力を発揮すると、部活動を通じて友人にも恵まれた。

 道具一式をわざわざ買い揃えてまで、熱心に入部を誘ってくれたサッカー部の顧問にも恵まれ、イジメなども特に感じることなく、日本語も上達していった。

 そうした日本滞在は3年余りで無事に終わり、予定通り家族で帰伯した。しかし、ブラジルで専門学校の入学試験を受けるも、日本滞在の3年間の空白の影響もあり、不合格になってしまう。

 それを受けて17歳の時に、父と二人でデカセギに出ることに。愛知県で暮らし、三重県の自動車関係の工場で働いて生計を立てた。その後は20歳で結婚し、翌年には長女Aさんが生まれた。

 長女Aさんが1歳の頃に帰伯し、親戚のツテで日本向けの人材派遣関係の仕事をする予定だったが、2001年9月11日のアメリカの同時多発テロが発生。仕事が取りやめになってしまった。

 それから再び訪日し、愛知県豊橋市の工場で働くことになった。その間に長女Aさんの3つ年下の次女Bさんが生まれ、仕事場でも従業員の管理をする役職に昇格するなど、生活は安定していった。

 そんな最中、転機となったのはやはり08年のリーマンショック。金融危機の影響は斎藤さんも免れられず、失業することに。しかし、失意の中、ダメ元で応募した市役所の日本語指導助手という仕事の審査に通り、すぐに働けることになった。

 日本語指導助手の仕事は、市内の学校に出向いて外国人の子供に基本の日本語を教えたり、懇談会や三者面談で外国人保護者と生徒、教員の間で通訳をしたりするのが内容。これは斎藤さんにとって、「自分が困ったことを子供に困らせないようにする」仕事だった。

 そのまま15年まで豊橋市で働きを続けたが、自身の娘の進学を理由に、帰伯することを選んだ。両親のデカセギに連れられて訪日して育った斎藤さんは、日本で生まれ育った自身の娘2人を、今度は伯国で育てていくことになった。

 14歳と11歳で初めて両親の生まれ育った国、ブラジルへ渡った娘たちAさん、Bさんにも話を伺った。(つづく、河鰭万里記者)

2018年4月11日付

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