デカセギ子弟たちの歩み⑤ 嘉悦ペトロスさん㊤

デカセギ子弟たちの歩み⑤ 嘉悦ペトロスさん㊤
嘉悦ペトロスさん

母の病気で急きょ渡伯

 両親がデカセギで住んでいた愛知県蒲郡(がまごおり)市で、嘉悦(かえつ)ペトロスさん(18歳、4世)は生まれ育った。家庭は、日系3世の父と非日系の母、9歳上の兄、6歳上の姉との5人暮らしで、言葉は日本語が中心だったという。

 母はそれほど日本語が堪能ではなく、「ヘストランチに行こう」といった表現を使うなど、時々母がわからない単語はポ語を混ぜたりしていたという。「(当時、)ポルトガル語は覚えるのが難しかったです。母に教えてもらうんだけど、すぐ忘れて、その繰り返しでした」と振り返る。

 公立の小学校に通っていた時は、鼻が大きいことをからかわれたりすることもあったが、ペトロスという名前から「ペトちゃん」や「ニヤペト」といった愛称で親しまれるなど、多くの友人にも恵まれた。「小学校は楽しかったです」と懐かしさに笑みがこぼれた。

 「そこに生まれて、そこの環境で生活して、そこに適していたら、そこの国の人」と語るペトロスさん。「日本という国で、そういう環境で育ったから、自分は日本人だと思っていました」と当時の心境を振り返った。取材に持参してくれた小学校の卒業文集をめくると、「みんなに一言」という項目があり、そこには子供らしくも力強い筆跡でこう書かれていた。

 「ぼくは日本で産まれました。小学校でいろんな友達がつくれました」。

 そんなペトロスさんに転機が訪れたのは、12歳の時。母が乳がんに罹っていて、医師に帰伯を勧められたことを知らされる。「母のそばか日本か」を父に問われたペトロスさんは、「母のそば」と答え、家族でブラジルに渡ってきたそうだ。

 着伯し、父の親戚の元で暮らすことになったが、4世であるペトロスさんは、ビザの都合で日本にはもう戻れないことを伝えられた。最初は親戚の言っていることが信じられず、すぐ日本に帰ると思い続け、ポ語の勉強にも身が入らなかったという。しかし、その後に父からも日本には連れていけないと告げられると、「母のそばにいたいと言っただけで、ブラジルにずっといるとは言っていない」と反発。父への信頼も失い、次第に絶望感が立ち込めたという。

 それから母が他界してしばらくすると、父は兄と共に日本に戻り、ペトロスさんと姉が親戚の元で暮らし始めた。こうしてブラジルで生活することになったペトロスさんに、大きく立ちはだかったのは言葉の壁だった。

 「最初の1、2年間はポルトガル語ができず、自分の思いも伝えられず、苦しんでいました」と重々しく振り返る。最初は学校には通わず、1年足らずの期間、家庭教師に習った。それでも言語習得はあまりはかどらず、初めてブラジルの中学校の門をくぐった日のことを思い出し、「結構トラウマ(になる体験)でした」と吐露(とろ)した。(つづく、河鰭万里記者)

2018年4月13日付

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