【移民108周年】パラグアイ日本人移住の歴史 移住80周年の節目の年を迎えて

パラグアイ日本人移住の歴史 移住80周年の節目の年を迎えて
1957年、日パ移住協定調印式(写真=パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」から)

 1936年8月に、日本から最初のパラグアイ日本人移民がラ・コルメナ移住地に入植して今年で80周年の節目の年を迎えた。また、同国で最も新しいイグアス移住地が61年に開設され、今年8月22日には入植 周年記念式典が同地で開催される予定だ。「パラグアイ日本人会連合会」が発信しているホームページを参照に、その内容を抜粋させてもらい、同国の日本移民の歴史を振り返る。(編集部)

◆パラグアイ移住の背景

 パラグアイに日本人が移住した背景として、排日機運の高まりを受けてブラジル日本人移民に対し、ブラジル政府が34年に発令した「移民二分制限法」(定住した当該国人の2%を超えることができないとする制度)があった。そのことで、当時ブラジルに年間2万人あった日本人入国の枠組みが、年間2500人にまで制限。これにより急速にパラグアイへの海外移住の準備が始まり、翌35年には日本人移民100家族のパラグアイへの入国許可が取得されたという。

 しかし、32年~35年のチャコ戦争後の武力革命により政権を握った当時のラファエル・フランコ大統領が「入国許可は前政権からの許可であり、現政権は認めない」としたため、パラグアイへの日本人移住は一時的に頓挫。その後の関係者の交渉で36年4月30日の大統領令により、日本人移民100家族を「試験的」に受け入れる許可が下りている。

 パラグアイの移住地選定は当時の日本の拓務省の直轄で進められ、対外関係上、表向きは当時の海外移住組合連合会系列のブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事だった宮坂国人氏の個人名義により移民の入国許可や入植地の売買が行われたという。その後、移住地については実質的に拓務省の直営とし、ブラ拓の中にパラグアイ拓殖部(パラ拓)が設置された。

◆戦前移住地

 36年3月には入植地選定の最終調査が行われ、3地区の中から現在のラ・コルメナ地区が選定された。同年5月15日にパラ拓スタッフが現地入りし、建設を開始。6月にはブラジルからの指導移民が派遣された後、8月に日本から最初のパラグアイ移民が到着した。

 しかし、初期のラ・コルメナ移住地は準備期間が短かく、たび重なるバッタの大群襲来による大打撃を受けるなどし、退耕者が相次いだ。41年に太平洋戦争が始まると、パラグアイは日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言。日本政府の援助による後続移民が途絶えた上に、日本人移住者は敵性外国人として日本語学校・青年団の解体などを強いられ、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となった。

◆戦後移住地

 第2次世界大戦後、日本はアジア地域からの引き揚げ者・復員軍人など1000万人以上の余剰人口を抱え、その対策として政策的に海外移住を進める時代に入った。

 52年にラ・コルメナ移住地の創始者だった宮坂氏の名義で日本人農業者120家族の入国許可を取り付け、55年にはチャベス移住地への入植が開始された。しかし、日本外務省の一部の反対により混乱を来たし、現地での受入準備や分譲地準備もままならないままに移住者を受け入れることとなり、移住者たちは原生林を切り拓くなど過酷な生活を余儀なくされた。

 現地での受入状態が整備される間もなく次々と移住者がやってきたため、同年6月の第4次移住家族の時にはすでにチャベス移住地には配耕地が不足する状態となっていた。そのため、日本海外振興株式会社により新しくフラム(現在のラ・パス)移住地が開設。55年中にはフジ地区、60年にはラ・パス及びサンタ・ローサ地区が満植となった。当時、受入設備のない未造成地に移住者が送り込まれたため、その生活は困難を極めた。

 そうした中で、56年にカフェ農園への契約雇用農として入植が行われたアマンバイへの移住はパラグアイ移住史の中では特異なケースだった。しかし、同地への移住に先立っては住居も何も準備されていなかった上、コーヒー農園の奴隷に代わる労働力として導入された背景もあり、労働条件や待遇は非常に厳しく、退耕者があとを絶たなかったそうだ。58年には同地の雇用主が倒産し、宙に浮いた移住者たちが土地を探し、自営入植が行われた。

 一方、フラム移住地の満植に先立ち、日本海外移住振興会社(株)が開設したのがアルトパラナ(現・ピラポ移住地)だった。同移住地はそれまでの苦労や困難の経験を生かし、入植前に道路造成や収容設備を整備。60年8月から入植が開始された。しかし、基盤整備は行われていたものの、主要都市から約80キロの距離にあることや、雨が降れば交通が遮断される原始林の中だったことなどで他の移住地同様の困難があった。

 翌年61年8月には、59年に締結された日本パラグアイ移住協定に基づき、パラグアイでも最も新しいイグアス移住地が開設された。同移住地は、パラグアイの首都であるアスンシオン市からブラジルへ抜ける国道沿いという恵まれた立地条件だったこともあり、他の移住地の経験を生かした日本人移住地として造成。当初はフラム、チャベス両移住地の二男、三男がモデルとなって分家入植し、その後63年から日本からの移住者を迎えた経緯がある。

◆日本人移住者の貢献

 戦前、「試験的」という厳しい条件の中、日本人移住者達が最初のラ・コルメナ移住地で数々の困難に立ち向かい、原生林を切り拓いた実績は、パラグアイ国において「勤勉な日本人」という印象を与え、その後の日本人移住者への大きな信用を与えている。

 またブラジルの日本移民同様、農業分野での貢献も大きく、ほとんどパラグアイでは摂取されていなかった野菜を栽培し、パラグアイ人の食生活の改善に大きく貢献してきた。

 現在のパラグアイ全土に在住する日本人移住者数は約7000人。同国人口の0・14%と数は少ないが、パラグアイの主要農産物の一つである大豆の全生産高の7%は日系農家で生産されており、現在では同国の輸出総額の約40%を占め、世界でも第4位の輸出国になっているという。特に、日本人移住者によって取り入れられた「不耕起栽培」が非常に高い生産性を誇っている。また、従来は輸入に頼っていた小麦も現在、約3割が日系農家によって生産され、国内の自給だけでなく輸出による外貨獲得にも貢献しているそうだ。

◆日系社会の現状と将来

 パラグアイに住む日本人は、当初は農業開拓のための移住が中心だったが、現在は移住地だけではなく首都アスンシオンをはじめ、エンカルナシオン、シウダー・デル・エステなどの都市部を中心に、商業、工業、金融業など幅広い分野で活動。ピラポやラ・パス移住地などでは、日系人市長や市会議員も輩出している。

 各移住地では、農協や日本人会が中心となって治安、道路整備や医療活動等の自治活動を活発に行うことで、それぞれの地域における行政の補完的な役割を果たし、移住地周辺住民全体の生活環境の改善にも資している。

 しかし、近年のパラグアイの経済状況の悪化に伴い、80年代から日系人の日本への出稼ぎが急増したことで、移住地を中心に若い世代の空洞化が懸念されているのも現状だ。先人たちが築き上げてきたパラグアイの日系社会を今後さらに発展させていくためにも、世代交代を踏まえて今後の日系社会の後継者を育成することが求められている。

 また、これまでのパラグアイ日系社会では日本人1世の努力により、南米の日系社会の中でも特別に高い日本語能力を維持してきた。しかし、世代が進むにつれて日本語で会話をしない家庭が増加。その一方で地域の非日系人からも日本語教育の需要が高まっており、従来の国語教育と併せて「外国語としての日本語教育」の拡充が急務になっているという。

 日本語教育だけでなく、今後も日系人として高い評価を維持してパラグアイ社会に貢献していくためにも、パラグアイ社会に認められた高度な子弟教育が将来への大きな課題となっている。

2016年6月25日付

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