ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(67) 山中 正二

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

花卉園芸専門業でパラー州ナンバーワン  東京農大・海外移住者のシンボル的な存在

山中商事 山中 正二 社長

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(67)
山中 正二

 豊富で種類が多い・美しい・見た目・色・艶・形・新鮮・品質・安心・安全などで、訪れたお客様からの評価が極めて高い「ヤマナカ花卉園芸店」(山中商事が運営)。2000平方メートルの店舗面積で卸しと小売りを行っており、店はベレン市内の中心部に立地している。販売品種は2000品種以上で、この中には山中が品種改良し商品化した花が赤色のサンタンカも含まれる。この花は店の前の大通りの中央分離帯に数キロにわたって花を咲かせているが、ベレン市内のあちこちの通りに植えられている。いわば市内の美化に大きく貢献しているわけだ。商売は花卉園芸の造園用花木類が主体で、ベレン圏で1店舗2農場(市内は3ha、近郊に50ha)を経営している。近郊農場では大型苗木類を栽培しパラー州では最大規模の花卉園芸業者になっている

 1982年、22年間働いた移住振興株式会社(JAMIC、現JICA、後述)が閉鎖したため退社した山中は、長年温めていた花卉園芸業に乗り出した。理由は「花卉園芸専門業がまだパラーになかった事から時代到来と決断し開業」した。当時のベレン市民やパラー州民には『花卉園芸』という言葉も概念もなく中山はそれを浸透させたパイオニアであり、人の心に潤いと優しさを与える花卉園芸をパラー州民に与えた草分け的存在だった。主な商品は花卉園芸植物の生産と販売(トロピカル及び温帯フラワー類と庭園花木類の生産、園芸用土、花卉園芸用具鉢物類、造園器具材芝生、造園自営業など、及び州外販売)で、販売及び仕入れ先はパラー州、マカバ州の北伯、北東ブラジル、中部ブラジル、サンパウロなど南東部、サンタカタリーナなど南部と商圏はブラジル全域に及び海外とも多くの取引を行っている。売れ筋商品は庭木類、切り花類、鉢類などだ。経営は家族9人、社員80名の固い信頼で結ばれた山中ファミリーで経営している。

 だがここに至るまで山中は人生の幾山河を乗り切ってきた。会社立ち上げとともに始まっていたブラジルのハイパーインフレ。90年代前半には年間2500%を超えて倒産寸前まで落ち込んだ。この時、子供たちは午前午後に分かれ親の仕事を手伝いながら学校に通っていた。政変、インフレ、運転資金不足、国内土地不法侵入、山中夫妻が揃って2度の癌手術(96年と2000年)。その結果、事業規模を縮小し、造園と花卉園芸という事業の選択と集中で生き延びた。この間、家族交代で頻繁に国内外の同業者への調査と視察を行い、最新のマーケット情報の収集、最新の経営技術の習得などに努めた。この花卉園芸産業の調査視察が現在に繋がり、1994年のレアルプラン以降は子供たちの成長も加わり「これ以降、急速に事業展開ができた」と穏やかな目で語る。82年から35年間かけて現在の山中商事を築いた理由については「まず会社設立の目的が明確であったこと。アマゾンは緑が多いが花が少ない、美しい環境都市づくりに一丸となり協力を得たこと。そして将来的に持続発展が可能な商材であったこと」という。経営能力があり人材を人財に変える人材育成に優れている山中は「いまも仕事は現役で家内とともに働いている。子供たち全員も私以上に花好きだ。これは親として大変有難いこと。子供たちには、『企画・実行・反省』と(変化が激しい業界ゆえに)『絶えざる国内外の視察』を教えてきた」という。

 山中は東京農大卒の移住者として、アマゾンを土俵にして農大文化を背負って生きてきた、集大成された体験の質と輝きを持っている1人だ。学生に海外移住の意義と必要性を説き続けアマゾン移住の覇者で国会議員も経験した故千葉三郎学長(当時)と、戦前に満蒙開拓団のシナリオを作成し海外拓殖のパイオニアである故杉野忠夫(農大拓殖科の創始者教授)の2人から直接指導を受けた学生であった。

 千葉学長からはアマゾン訪問時にはいつも「朝食時に子供連れで来るように」と誘われたほどの愛弟子だった。アマゾニア農大との姉妹校提携交渉、山中が千葉学長にアマゾニア病院建設構想を説明し日本船舶振興会(現日本財団)理事長の笹川良一から1億円の寄付を取り付けてアマゾニア病院が建設されたこと、千葉にマンジョカ試験農場と加工場建設を意見具申し設立されたこと、これによりその後アルコール車が実現。杉野忠夫とは学生移住連盟設立構想とその組織化で協業し、学生移住連盟誕生時には創立メンバーとして参加。第1回南米実習派遣、農大が中心になり当時の岸信介総理大臣を招き講演会の開催も行った。

 54年にアマゾンを訪れた評論家の大宅壮一はその感想を『緑の地獄』と話したが、これを聞いた杉野は『アマゾンは緑の天国』と大宅に直ちに反論した話は知る人ぞ知る有名な話である。農大海外移民史に詳しい野口紘一によれば、その杉野は「私はアマゾンのジャングルの中に経済と文化の一大社会圏が近い将来できることを信じて疑わないのである」と60年以上前に現在あるのを喝破している。続けて「生涯を開拓と移住と農業開発に、同時に若い青年達を教育指導した遺徳が偲ばれる、杉野のお墓は分骨され千葉学長とともに、日本、アマゾン、サンパウロに分かれて埋葬されている」という。アマゾン開拓の先達がここに眠っている、農大・海外移住文化の歴史と偉大さを改めて教えてくれる話だ。

 山中は農大卒業後の60年(昭和35年)に青年の夢と志を胸にしてブラジルに移住。その第1歩は東山農場(三菱財閥創業者の岩崎弥太郎の弟・久弥が27年に開場、現小岩井農場とは姉妹関係)の研修生で、ブラジル東山農業研修所を卒業直後からめきめきと頭角を現した。そして僅か2年後の62年に早くも山中の人物と力量が評価され、JAMIC側からの入社要請と当時の農場総支配人であった山本喜誉司博士の勧めもあって入社した。最初の仕事は戦後最大の日本人移住地造成建設である第2トメアス造成事業だ。計画現場の中心的なメンバーグループに入り、移住地(原始林)全体図作成、耕地分布図、太陽光からの移住地基点の作成、道路造成橋梁架設、トランシット測量による外郭線設定(この造成事業地の1部はいまアグロフォレスト農業(自然と共生する森林農法)で世界から注目されている地域)など、現場を直接指導した1人だった。さらにアマゾニア熱帯農業試験場建設、アマゾン開発庁(SUDAN)と機材導入免税交渉、ブラジル農務省と胡椒病害対策や新作物導入開発などの協業化も交渉した。これらの仕事と並行するように全アマゾン8州(トカンチンス州を含む)に住む30か所の日系人移住地の医療・福祉・教育・生活改善及び農業改良事業など、ここに住む住人の生活改善や生活改良の事業に取り組み、JAMICの現場指揮官としてその最前線に立って20年間にわたりこの事業を推進してきた。

 農大時代は林学科に籍を置き、造林学を学びつつ東大君津郡演習場で合宿実習をし、田中波慈女教授の「食物連鎖」を専攻した。山中にとって農大イズムとは何かを聞くと「人間が地球上で生活する衣食住(林農畜水産学)の探求、科学進歩に伴う環境破壊の修復(緊急植林対策)、食物連鎖のエチカーコントロール」の3点を挙げた。ブラジル東京農大北伯分会元会長も務め会員数22名(総家族員数146名)と多くの同窓仲間がいる。会員気質と北伯分会の特徴は「若くして日本を離れた故に、日本社会の経験が浅い、生活態度が冒険的である、現地隔離日系社会生活からか頑固な性格が多い」という。母校との交流が緊密であることを踏まえて「世界の安全性を観察し、健全頑丈であれ」と母校の若い世代を励ました。

 ブラジルに移住して57年目を迎え来年80歳の傘寿を迎える山中。東山農場の研修生になって以来、日本の公的会社の職員として、山中商事の社長として、アマゾンの地域開発と地域社会発展に貢献し、アマゾンと日本を結び、アマゾンと農大を結び、アマゾン社会の一隅を照らし続けてきた人生を紹介しよう。

 1938年に岩手県岩手郡岩手町川口で父・喜兵衛と母・キエとの間に5番目の子供として生まれた。実家は地元の旧本家で林業と農業で生計を立てていたが、「母と叔父が長い闘病生活であらゆる仕事を手伝っていた。このことが経営でも人生でもいまでも大変役立っている」という。ちなみに山中家は戦前には軍馬を常時50頭前後飼育し、戦後は競走馬生産や乳牛飼育を行っていた。ブラジル移住が決まった時に父からは「正二、良く出来る人は、何処でもよくやる、後ろ指を指されることはするな」、母からは「身体あっての自分だ、達者で暮らせ」と励ましてくれたが、祖母・兄弟・親戚一同からはこぞって移住に反対された。

 しかし山中は両親の期待に応えて男子の本懐を成し遂げた。ブラジル山中家初代の家長として記子夫人とともに子育ても立派に成し遂げている。まず記子夫人は69年に花嫁移住として嫁いできたがPTA付き(父親)送迎で当時は話題になった。子供は5人で、長男はカルロス・正仁で子供3人、次男はエルベルツ・巧二で子供2人、長女がクリスチナ・正子で子供1人、次女がラエリア・祐子で子供1人、3男がデビソン・正吾で子供2人、で3世代20人家族になっている。記子夫人に対して「ともに癌を克服し5人の子供たちを最高学府で卒業させ、サラリーマン、自営業と苦労をさせ、その努力に感謝している」と心情を述べた。

 そこで事業でも子育てにも成功した山中のボランティア活動での公職と受賞歴を見てみよう。まず現在の公職は、岩手県親善大使、ベレン岩手県人会長、パラー日系商工会議所副会頭、山本喜誉司賞・北伯地域選考委員、東京農大北伯分会理事。過去の主な公職は東京農大北伯分会長、過去の主な賞罰は、国際協力事業団総裁から表彰状、山本喜誉司賞、パラー州農業開発賞、パラー州商工会議所賞、東京農大理事長から感謝状、東京農大学長から感謝状、パラー州軍警察から感謝状、岩手県知事から感謝状、その他多数で、山中のボランティア活動の実績がよくわかる話だ。

 取材の最後に山中はこう言った。「北伯の日系移民はパイオニア精神に長け心身ともに剛健だ。内向型で外向型が不足している感もあるが、将来、ここパラー州はあらゆる分野で事業展開が可能と思われる。これからも『一心不乱、質実剛健、自治協同の精神』という自分自身を支えてきたバックボーンを心に刻み、ここベレン、パラー州、そしてアマゾンの地で家族とともに生きていく覚悟だ」。(敬称略 筆者 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2017年4月11日付

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