ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(70)堤 剛太

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

アマゾンと日本を結ぶキーパーソンの1人
専修大卒の文化人ジャーナリスト

サンパウロ新聞ベレン支局 堤 剛太 支局長

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(70)
堤 剛太

 北伯の日系アマゾン移住者は「独立心に富んでいる」「自己主張が顕著」という堤。本人自身も「不撓不屈」を人生のバックボーンに生きてきた。「アマゾンを愛しアマゾンを想う気持ちは誰にも負けない」と自負する。26歳になった1974年3月にブラジルに移住しサンパウロ新聞本社編集部に籍を置いた。サンパウロからベレンに再移住したのは1977年。この時にサンパウロの次はベレンと決めていたが、運も後押ししベレン在住の女性との縁談話しも加わった。以来、ジャーナリストとしてアマゾンに根を下ろし、40年間ベレン発の記事を国内外に向けて書き続けている記者としての誇りとプライドがある。担当地域はアマゾン(7州に及び総面積は日本の15倍)全州でここに住む日本人移住地の90%を調査済みだ。ブラジルと日本に深くて幅広い交友関係を持ち、誰もが納得する世間常識を身につけて日本語とポルトガル語を自在に使い切れる点でもトップレベルにあるジャーナリストだ。それ故に堤はアマゾンやブラジルの日系社会を中心に日本社会からも頼られる存在になっている。サンパウロ新聞ベレン支局長、汎アマゾニア日伯協会などの日系社会と日系団体、文筆業、翻訳家、アマゾンと農業及び環境を中心にした研究者、そして日本の大学や役所、研究機関、民間企業などからの、協力依頼や協業依頼が後を絶たない。新聞社の支局長という枠を超えて、アマゾンとブラジル、アマゾンと日本、ブラジルと日本という全体構図から見ても、過去から現在、現在から未来を結ぶ、伯日両国にとっては欠かせない人物にもなっている。こうした経験と体験に基づく実績という集大成を背景に、堤はアマゾン全流域を代表するような日系人の顔の1人になっている。

◆日系団体での活動

 日系団体では汎アマゾニア日伯協会(北伯アマゾン地域の日系団体をまとめる連合会組織(北伯のパラー州、アマバー州、マラニョン州、ピアウイ州の4州を管轄)で第1副会長(筆頭副会長に相当)職を務めているが、4年前までは同協会の事務局長を25年以上勤め、日系人や日系社会からの評価が高い優れた組織運営を行ってきた。同時にアマゾン日伯交流センター建設にも携わった。またアマゾン日本人移住70周年記念誌編集に携わり、ブラジル日本人移住100周年記念祭とアマゾン日本人移住80周年祭典にも携わる。汎アマゾニア日伯協会創立55周年記念誌も編纂した。80年代以降、アマゾンの日系人関係の記念祭典や記念誌発行時には節目節目でリーダー役として中心的な立場と役割を担ってきた。こうした功績も加わり12年には日本の外務大臣賞も受賞している。アマゾンの日系人や日系社会から頼られる存在になっているが、「『謙虚さと人への思いやり』『各種の物事に対応できる柔軟性』『経験からくる慎重さ』を日頃の心構えとしている」人徳を持っていることが大きい。またこの地域の日系団体が南など他州との違いは「独立独歩の気風があり、官僚的な組織にならない」ことだという。北伯日系人経営者の気質も「決断力があり親分肌で型にはまらない」という特徴があるという。

◆東京農工大客員教授

 2014年3月から東京農工大の客員教授を務めている。そのポストとは産学官連携研究員で、具体的にはトメアス(ベレンから南に250km先にある日本人移住地)が先鞭をつけたアグロフォーレスト(森林農法)普及プロジェクトの推進と調整、及びアマゾン川沿岸のバルゼア(浸水地帯)でのアサイー(果物の1種)調査など、アマゾン地域日系人農業者支援プロジェクト推進のコーディネーターとしてコーディネートを行っている。客員教授になったそのきっかけは、80年代から付き合っていた森林農法の第1人者でもある同大学の山田裕彰教授から、13年にこのプロジェクトへの参加を要請されたことだった。堤が同大と一緒にやってきた主な活動実績を3点紹介しよう。

 ・ベレン近郊のサンタ・バルバラ(ベレンから40km)にあるコミュニティの住民にJICA、トメアス農業協同組合、農工大、の3者でモデル農園を作り農業指導をしてきたが、このプロジェクトの運営及び管理、

 ・同プロジェクトのイガラッペアス(ベレンから120km)でモデル農園の推進、

 ・三井環境基金及び農工大プロジェクトでカメター地方(ベレンから200km)浸水地帯でのアサイーの調査推進、

 農業支援を軸に産官学の連携では、プロジェクトのコーディネーターとして堤はいまや欠かせない存在になっている。

◆サンパウロ新聞・ベレン支局長

 本社に経費を一切頼らず独立自営で支局運営を行ってきた。支局の管轄地域はアマゾン全域と広大。「アマゾン地域や日系社会の出来事を南の地方の人達にも知ってほしいという気持ちが強いのと取材活動が好き」なことが気持ちの支えに繋がっている。「偏った記事にならないように、狭い日系社会なので記事にする時には掲載後の影響を極力配慮する」という。「インターネットも無い時代、交通手段や電話網の不整備などから取材先に辿り着くのが一苦労だった、また書いた記事を本社に送る手段にも悩まされた、記事を書く際の資料は全て手探りして自分で収集せざるを得なかった、取材費を確保できず遠方まで飛行機で行けなかったことも多かった」など数多くの苦労も重ねてきた。また麻薬常習者に絡まれたり、インディオに取り囲まれたり、ホテル探しで何時間もかかったり、軽飛行機の揺れで死にそうになったり、とアマゾン取材には多くのエピソードも持っている。こうした中でジャーナリストの堤は「正確な記事を書く、一般の人があまり知らない消えた移住地や辺境地のルポ」などで、北伯日系人や日系社会から高い評価と信頼を獲得している。次世代に伝えたいことは「やはり、移民の歴史を伝えたい。その、長い歴史の中から育まれてきた日本人移民の特質を伝えて生きたい」。

◆我が人生に悔いなし

 アマゾンとともに人生がある堤は大学卒業後、自分の進むべき道を求めてそれが海外雄飛に繋がった。その移住理由について「日本で働いていたが毎日のルーチンに厭き、海外への脱出に人生を賭けた。自分にとってカナンの地が見つかるまでは、南米、中米、カリブ、北米を放浪する覚悟で、ブラジル移住はすごろくのスタート地点であった。何かを求めての人生の旅であったが明確には決めていなかった。サンパウロで邦字紙に職を求めたのは元新聞記者だった父のアドバイスがヒントだった。その後、サンパウロで父の親族と偶然会う。

 その人物に聞いた話では北米や南米にも一族が移住しているそうで(私の両親も満州へ出ている)、私が海外へ出たのも一族の血だったかもしれないと、昨今はそう思っている」。

 堤は、長崎県長崎市出身の父・季秋と福岡県久留米市出身の母・俊枝との間の3人兄弟の長男として、48年3月3日の雛祭りの日に宮崎県で生まれた。その後、父の仕事の関係で福岡、東京、神奈川、千葉、東京、と転居し、そしてブラジルに来た。

 天真爛漫で育ち環境にも適応し楽しい日々を過ごすが、8歳の時から父の指示で新聞配達をやらされた。結果的には絶対休んではいけないという「責任感が身についた」。専修大在学中は勤勉努力型で過ごす。生活信条は「平常心」、座右名は「行雲流水」、スポーツは居合道初段、空手初段で文武両道に通じているサムライだ。得意分野は移民史の調査研究と辺境の地への旅。

 70年代から現在までの主な思い出は、70年代はブラジル移住と結婚、長男と長女が誕生。80年代は人類学者の友人と2人でアマゾン横断道路をベレンからボリビアまで5000キロを踏破した。また国費留学の妻に家族で同行し2年間日本で生活したことで、この間に針灸専門学校に通い針灸師の資格を取った。00年代は日本一短い手紙コンクールで「一筆啓上賞」を受賞した。10年代は東京農工大に奉職。

 家族構成は妻の美穂子とは77年に結婚、「温和で包容力がありそうだった」。感謝の気持ちは「良くここまでついてきてくれたね、ありがとう」。その妻は国立パラー連邦大学の病理学部でこの3月まで『癌細胞診』を教えており、この分野ではブラジルを代表する権威者。いまも国内外から招聘が後を絶たず、年に20回程度は国内外での講演や指導などの出張が続いている。40年間の夫婦生活では妻が緊急を要する手術のために飛行機を堤個人がサンパウロからチャーターし、ベレンからサンパウロまで妻を運び無事に手術を終えて夫の面目を果たした。

 子供と孫は、長男・堤エルナンド多聞、妻はクリスチーナ、長女は千笑美エーレン、長女・セシリア詩子、夫が久光ジョナタス、長男がカイオ健、次女・はるかシルビア堤・ド・カルモ、夫がブルーノ・サンシェス・ド・カルモ、長女がはるみカロリーナ、とブラジル堤家は11人の家族で昨年は全員で訪日してきた。

 堤の話を聞けば聞くほど、大きな家族愛に包まれて家庭を大事にしている、この男ほどアマゾンを愛し続けている日本人はいないのではないかと思えてくる。最後に堤はこう言った。「人生では『誠実』、ジャーナリストとしては『信頼』を原点に、海外に日系社会が存在し、母国を側面から支えられていることに大きな誇りを感じている」。(筆者 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2017年5月3日付

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