ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(74)㊦ 山口 カルロス 彰男

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

積極性があり父親譲りの職人芸と指導力
アルモニア学生寮で磨いた信用と徳性

セラード珈琲 山口 カルロス 彰男 社長 ㊦

 ここからは山口の人生を回顧してみよう。その原点になった父から褒められたことは「リーマンショックの2008年以降から社長をやっていること」だった。また幼児期から「怒られたことは1度もなく過ごしてきた」という。そこで山口をここまで育てた父・節夫を紹介したい。コチア青年協議会50周年記念誌によれば、「アチバイア市で42年間に渡って花卉栽培に従事、コチア青年連絡協議会初代会長を務めた山口節男さん(1955年に移住し入植、1次2回、長野県出身、元農林大臣・渡辺美智雄の後援会でブラジル温知会後援会長を務める)。高校卒業後、日本でも有数の花卉栽培地域として知られた長野県坂城町の農協の技術者として働き、当時から花卉栽培の生産、販売に携わった。山口さんに師事し花卉栽培を学んだいわゆる『山口学校』の卒業生らも次々に現地で花作りに励んだ。アチバイアは「花どころ」として活気を帯びていく―『山口節夫は花どころアチバイアをつくり育てたパイオニア』」と記されている。いわばコチア青年の中ではシンボル的存在の指導者だった。山口は幼少の頃から田舎でランプ生活をしながら父が花卉栽培に励み、後に続く青年たちを指導し次々と独立させていく姿を見て育ったのであった。

 出生地はサンパウロの郊外都市・エンブーで、父の節夫(30年生まれ、長野県)と母の紀美子(31年生まれ、長野県、節夫の父の目に留まり60年に移住した花嫁移民の先駆け)との3人兄弟の長男として61年に生まれた。「子供の頃は電気関係の技術者になることが夢だった。小さい時の楽しかった思い出は家族や友人と過ごしたこと、悲しかった思い出はブラジル人にいじめられたことだった」という。この父が14歳になった山口をアルモニア学生寮に入寮させて、高校、大学時代と8年間の寮生活を過ごした。全ては勉学のためだった。大学はサンベルナルド市のFEI(工業大学)の電子工学科で学び84年に卒業した。同学生寮はブラジルの日系コロニア社会を支えてきた多士済々のリーダーを輩出してきた歴史がある。家族が住む自宅はサンパウロ郊外都市のアチバイアにあり「毎週週末に自宅に帰り家族や友人と過ごすことがとても嬉しった」という。こうした家族愛に恵まれて育った山口カルロス彰男家の家族構成は、妻がヨン・ヒーで63年生まれ、長女がエリカ・ミキ、次女がアンドレイア・チエミ、長男はレオ・テツオ、次男はエリキ・マコト、と4人の子宝に恵まれた。

 現在56歳の二世社長はブラジル生まれだが日本の伝統的な精神文化が身についている。子供の頃に父からは「人間関係の大切さ、特に人への思いやり」、母からは「挑戦し続ける心と精神の大切さ」を教わった。アルモニア学生寮では「何ものにも代えがたい『信用』と『人と人との付き合い』」を学んだ。これらの格言はいまも毎日を支える人生訓になっている。いまなおブラジル移民の開拓者魂(拓魂)が脈々と流れている山口には、コーヒー文化を通して日伯間の新たな時代到来を感じさせる何かを持っている。

 いまから31年前の86年から本格的に始まった一途邁進のコーヒー人生。当時のブラジル産コーヒーの品質は世界市場から2級品以下と見下されていた時期だった。山口はこの悔しさをバネにして世界レベルでかつ最上のコーヒー豆をつくるために、日夜休みなく品質改善に向けて先頭に立って働き続けた。すべては日本のお客様1人1人に安らぎと潤いのある美味しいスペシャリティコーヒーを提供するためだった。そこには親子2代と山口を社長候補として厳しく育てた創業社長の上原勇作による、3人の総意を結集した誰にも負けないスペシャリティコーヒーがあった。(筆者 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2017年6月7日付

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