ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(75) 寺尾 貞亮

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

グリーンプロポリスで人々の健康を願う
キリスト教のエバンジェリスト(伝道師)も務める

寺尾養蜂場 寺尾 貞亮 社長

寺尾 貞亮 社長 サンパウロから南に150km地点に日系人が多く暮らすピラール・ド・スール市がある。果物の中でもブラジルで最高品質を誇るブランド化した「富有柿」や、「ブドウのシャインマスカット」の生産地として有名だ。この地で1983年に創業した寺尾養蜂場。それ以来、プロポリスの最高品質レベルといわれる高濃度のグリーンプロポリスの生産&販売で知られている会社だ。国内外での販売の中でも特に注目されるのは、この原塊を日本及び中国市場を中心に世界中に輸出していることだ。その累計実績は、日本に3万3000kg(高濃度グリーンプロポリス・30mlサイズで108万9000本)、中国に4万3000kg(高濃度グリーンプロポリス・30mlサイズで132万1200本)を正式輸出しており、この原塊品質に対する評価がよく分かる話だ。

 こうした世界から評価されている商品誕生の背景はこうだった。85年頃からグリーンプロポリスの商品開発に務め、数年間にわたり試作品を自ら試飲し続けた。病弱だったが故に人々の健康と幸せを願い続けている寺尾は、自分自身を実験台にしたのである。そして遂に89年に自社プロポリスの商品開発に成功した。この商品名『高濃度グリーンプロポリス』は同社の看板商品になっており、いまでもブラジルや日本を中心に国内外に多くの愛飲家(累計総人数2・4万人、累計販売本数は約241万本)を持っている。それを支えたのはミナスジェライス州の高原地帯で自身が発見し採取した『茶緑系グリーンプロポリス』の原塊だった。健康に欠かせない強い抗酸化作用のフラボノイド、ポリフェノール、アルデピリンC、さらにビタミンやミネラルなどが一般のプロポリスに較べて健康成分が豊富に含まれていることが分析結果で明らかになっている。

 このようなプロポリスを本業とする寺尾は、一方では熱心なキリスト教信者でもあり教会伝道所(サンパウロ州ピラール・ド・スール伝道所)を自ら主宰しているエバンジェリスト(伝道師)であることは余り知られていない。喜寿を過ぎたいま、自分の人生への反省を込めて、「人生は1度しかない、私の半生は天の主たる神の罪人でしたが、いまは伝道師として人々の幸福づくりのために『心の幸福、健康による幸福、経済による幸福』を神から授かるべく、伝道師として多くの方々に聖書の教えを証明させていただいている。14年前の2003年には東京・上野の宣教神学校を卒業した」と、伝道師としてあらゆる場所や会合であるいは講演会やメディアなどを通して、毎日『キリスト教の教えに沿って心と魂に潤いがあり心豊かに生きる生活とは何か』を人々に説き続けている、宗教心に支えられた経営者が寺尾である。

 その寺尾は6歳から波乱万丈の壮絶な人生を体験してきた創業経営者でもある。こうした体験を持つ経営者はブラジルに住む日系人の中でも少数派だろう。ブラジルへの移住後、その苛酷な運命の呪縛から脱却すべき、魂の救済を求めてキリスト教信者になり、生き方、考え方、自己改造など、自らに内在している善の心と精神を最大化させて、自分の人生を幸福人生に変えいま万福の人生を歩んでいる。

 こうして現在を築き上げ、社会的に評価される地位を築いた寺尾の歩んできた道は、決して平坦ではなく、まさに言語に絶する壮絶な人生ドラマそのものだった。いつの世でもいつの時代でも、またどこの世界でも、人生には運不運がある。6歳から20歳までを戦後の混乱期とともに長崎で過ごし「私たち一家は今日の飯さえ食べるのに苦労した」という、重荷を背負って生きてきた寺尾の半生を回顧してみよう。父の辰雄(芸名・寺尾新太郎)は戦前ピアニストとして働き、6人家族の温かい家庭だったが寺尾が5歳の時に病死した。その後、母の田鶴子と子供5人は母の実家である長崎に身を寄せた。しかし、ここから悲惨な極貧生活が始まった。6歳で長崎に落ちた原子爆弾で被爆し、小学生の時には地元のわんぱく少年に苛められ不登校になった。15歳からは港に停泊する漁船の荒くれ漁師相手に、生きて行くために食品販売の闇商売を手がけ、またやくざの親分に利用され、さらに女で失敗し、波乱万丈の青春時代を生き抜いた。20歳の時にとうとう日本で行き場が無くなったことを自ら体験する。  

 その結果、残された最後の選択としてブラジル移住を決断した。「このまま日本にいれば俺の行き場はないし未来もない。そうだ、広大な国ブラジルに行って自分の人生をゼロからやり直そう」。人生の分岐点を自ら選択した瞬間だった。60年に移民船『ブラジル丸』に乗ってブラジル最南端のリオ・グランデ・ド・スール州に着いた。21歳の時だった。最初の仕事は農作業で農薬漬けになりながら3年間働いた。そこで身体を壊し州都のポルトアレグレに出た。その後、サンタカタリーナ州、パラナ州、リオ・デ・ジャネイロ州を転々と渡り歩く放浪生活が続く。バナナなどを食べて生き延びた日が幾度もあった。こうした生きるか死ぬかの死線をさ迷うような、自分の命との闘いがブラジルに移民してからキリスト教に入信するまで続いた。66年の27歳の時に大腸炎を患い再び死線をさ迷う。そこで辿りついたのがキリスト教の伝道所だった。6年前の移民船で同船者だったブラジルで布教活動のために乗船した米国籍の日本人宣教師との出会いがあった。その船中で「キリスト教の持つ清らかな心と魂」に感動したことを思い出していた。そして同年、「神に自分の心と魂の救済を求めて信者になった」。その直後から「信じられないように身も心も清らかに洗われた」と言う。今度は一変して天の主なる神に守られた寺尾の人生がマイナスからプラスに上向いていくことになる。

 その幸福人生づくりの第1歩は70年代から始めたサンパウロでの家具中古販売店だった。商売の勢いで3店舗まで拡大させた。しかし7年間の順調な成長の後に3年間続いたインフレで商売は破綻し家族を抱えて再び無一文になった。この時に世界的な画家・ミレーの有名な絵画『晩鐘』(東京の国立西洋美術館の解説によれば「なんとも厳粛で高貴な作品だ。軽率な日常を過ごす我々にとっては身の引き締まる思いにとらわれる。信仰心の有無ではなく、日常の糧を得られることへの感謝と自然の中で生かされているという謙虚な心を持つことの重要さを教えてくれる作品だ」)を見て「心が救われるような思いがした」と目を潤ませて語る寺尾。この絵を見て都会生活から心の休まる人間らしい田舎で暮らすことを決断した。そこで81年に家族でサンパウロを離れ、南へ170km離れたコロニア・ピニャール(通称・福井村)で暮らしながら日本語教師を4年間続けた。そしてこの地でプロポリスと出会い経営者人生が始まった。具体的には原料確保、生産、商品化、営業販売、という自社一貫生産態勢のプロポリス専業業者になったことだった。そして、90年代、00年代、10年代、を勝ち残ってきた。高濃度グリーンプロポリスの最初の発見者として、世界を相手の養蜂業者として、国内外の人々の健康維持と健康増進に貢献できる、このプロポリス事業には人一倍強い愛着心を持っている。

 80年代後半から90年代にかけて日本で大ブームになったプロポリス。最盛期を迎えた頃には数えきれないほど多くの業者が乱立した。しかし00年代以降からは自然淘汰が始まり日系人業者もほとんど廃業或いは転業していった。業界のサバイバルに勝ち残ったいま、ブラジルでプロポリスを本業としているのは数社程度でその1社が寺尾養蜂場だ。30年以上かけて育て上げた健康補助食品のグリーンプロポリスは、いまもお客様から根強い支持と信頼に支えられて現在に至っている。こうして寺尾はブラジルを代表するプロポリス業経営者の1人になった。また現在は養蜂事業以外にも、戦後、賀川豊彦師の立案による立体農業に共鳴し、ユーカリ栽培、トウモロコシ栽培、牧畜業なども営んでいる。  

 ブラジルの景気好転は暫く先と厳しい経済不況の中で、寺尾にとっては会社サバイバルのために息の抜けない経営が続いている。(筆者 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2017年6月13日付

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