ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 (85) 滋野 光明

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

養鶏業を始めて86年、経営は3世から4世の時代に
決断と実行で絶えざる改革、事業の多角化でも輝く先見性

ファゼンダ・シゲノ(滋野農場) 滋野 光明 社長

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 (85) 滋野 光明

 祖父が移住した代から数えて養鶏業は今年で86年になるが、事業安定化のために1971年から多角化経営に踏み切った。養鶏・牧場・農場を合わせたファゼンダ・シゲノが所有する合計土地面積は2万5000haに及ぶ。従業員総数は750人。養鶏場のあるタツイ市を中心に都市近郊型農畜産業を行い経営は4世世代に移行した。この事業基盤を構築したのが今年74歳を迎える3世の滋野光明だ。71年の社長就任以来、解雇した社員は2人しかおらず、1人1人の従業員を大切にする人間性尊重主義には定評がある。日系社会では1部を除いて無名に近い存在だが経営者として共生文化の持ち主だ。

 
 取材当日、朝8時に滋野と会った早々からミカン畑に案内された。タツイ市から州道を西へ120キロ行くと滋野の農場である『カリフォルニア農場』と『サンタフェ農場』の看板が見えてくる。そこを右折し舗装のない町道のデコボコ道を3キロ走ると180万本以上の栽培本数のミカン畑が目の前一杯に見えてくる。見るだけでも1日以上かかり、中に入り込むと出口が分からなくなり迷子になる例もあるという。その栽培敷地面積2500haは四方八方ミカン畑1色。気が遠くなるような面積だ。丘を幾つ超えてもミカン畑が延々と続く。日本のミカン村が2つも3つもすっぽり入るような広大さだ。この農場は71年に滋野の手によって開業した。いま年間収穫量は250万ケース(40㎏)で日系人の個人経営ではサンパウロ州最大の生産農家。年間生産トン数は11万トンを超えるまでに成長した。事業別構成比は25%を占めている。滋野が27歳の時に決断し実行した最初の関連事業だった。

 
 またタツイ市から西へ170キロ離れた地点にはコーヒー農場がある。農園名は「ノーボ・エスポランサ」と「ノーボ・オリゾンテ」。コーヒー面積は600haで栽培本数は180万本。年間収穫量総トン数は1080トンに達する。開業は86年だった。

 
 さらにマットグロッソ州ホンドノポリス(ソロカバから北方向に1300㎞)には農場名が『ヴィクトリア・デ・サンタローザ」の牧場がある。牧場面積2万ha超で雌牛を1万頭以上飼育している。50歳になった94年に開業させた。

 
 そして事業の核になる養鶏業は事業別構成比で40%の比重を占める。開業は1932年で社名は『グランジャ・シゲノ(滋野養鶏場)』。いま200万羽を飼育し毎日150万個の卵を生産するが全て代理店経由で販売されている。1棟10万羽が飼育されている養鶏場は24棟ある。しかし数年以内には近くに買った土地に養鶏場ごと移転する計画がある。滋野はここで71年から社長を務めている。

 
 これだけの事業規模になったファゼンダ・シゲノ・グループだが、戦後は52年にサンノゼ・ドス・カンポス(サンパウロの郊外都市)の30haで滋野甚一&治夫兄弟が養鶏場を再開させた。しかし治夫は65年からタツイ市に100haの土地を買い兄弟から分離して独立経営に踏み切った。これが結果的にブラジル滋野家の養鶏業86年の歴史に繋がった。兄である滋野甚一系の養鶏場が倒産したのであった。

 
 移民世代で言えば3世になる滋野だが、パラナ州出身で連邦議員を長い間務めた故上野アントニオ義雄が日本移民100周年を迎えたその時、筆者にこう語った言葉がある。それは自分がパラナ州で綿花やコーヒー栽培の事業をやった経験から「イタリアやドイツ系移民は1世から3世までは事業発展の準備期間とし、4世や5世の時代になってから大きく羽ばたいている。まもなく日系人の会社も経営者もこうした時代がやってくるだろう」。

 1932年にブラジル移住した滋野家にもそれが言えそうだ。家族で移住した1世の信、2世で父の治夫、そして孫で3世の光明、曾孫で4世のグスタボ、と代を重ねる毎に社業を拡大発展させている。養鶏の世界では、信は30羽から、治夫は500羽から10万羽へ、光明は1万羽から200万羽へと、新たな移民の歴史が見えてくる。特に3世の光明は多角化事業を成功させてブラジル滋野家の事業基盤構築に大きく貢献してきた。いままで見えなかった日系人経営者として4世世代の時代がやってきた。

 
 いまファゼンダ・シゲノの経営陣は、長男・グスタボが養鶏場を経営。次男のギレルメがミカン栽培、コーヒー栽培、牧場の3事業を経営。もちろん人事権も財務決裁権も任されている。娘のカロリーナは財務担当をしている。実は滋野も30歳の時に父・治夫から養鶏業の一切の経営責任を任されていた。

 
 このブラジル滋野家は、32年に長野県伊那市から移住した祖父・信(祖母はタケノ)からグスタボまで続く養鶏業だが、一方ではその歴史は勝ち残っていくための改革と改造の連続でもあった。時代変化に遅れず対応し、むしろ先取りするビジョンと行動で果敢に時代変化の波を乗り越えてきた。「養鶏業を始めて以来、時流に合った全社的な改革を過去15回やっている、それが86年の社歴に繋がっている」と自然体でこう語る滋野。青年期に米国留学で鍛えた視野の広さに常在戦場の胆力と決断力が加わっている。

 
 ところで44年生まれの滋野が3代目創業型経営者として養鶏業を拡大発展できた理由がある。67年23歳の時、当時あらゆる分野で世界の最先端をいっていた米国で学びたくて留学を父に相談した。その時に父はこういった、「鶏の勉強だったら留学してよい」。早速、米国ジョージア州シフトン市の大学で特に鶏に関する専門課程を4年間勉強した。滋野がこう語る、「自分から志願した米国留学、養鶏といえば当時は米国が世界の中心だった」と養鶏の専門家になって卒業した。同時にタツイに帰ってきて昼間は父とともに働き、夜は地元の大学で経営学を勉強した。こうして滋野は、高度な養鶏技術と最新の経営手法という2つを手にした青年事業家として自社グループの発展拡大に全力を注いだ。

 
 同時に事業の多角化については「父・治夫からのアドバイスで養鶏業は過去の例からもわかるように何かあればあっという間に倒産することが多い。経営と事業の安定化を図るために多角化を始めた」。同時に「毎日130トン前後出る鶏糞を発酵肥料化して資源を有効利用できるミカン栽培とコーヒー栽培、牧場を始めた」。

 
 この結果、現在「ファゼンダ・シゲノとしてその事業構成比は、養鶏40、ミカン25、コーヒー17・5、牧場17・5」と語るのは4世経営者のグスタボだ。「経営の安定化は加速している」というが、一方でこうも語っている。「卵市場は17年から18年にかけて10%伸びているが、養鶏業1つとってみても、我々に明日はあるか、と絶えず危機管理を怠らず、時流の変化を読み取り自問自答している」という。

 
 ここでブラジル滋野家を紹介したい。父の治夫は17年生まれで15歳の時に、祖父の信(長野県上伊那郡伊那市西原近村の出身)、祖母のタケヨとともに家族でノロエステのミ ランドポリス移住地に32年に入植した。母の名はトヨ。2年後の34年にモジダスクルーゼスに再移住、滋野は44年に養鶏業一家としてここで生まれた。ブラジル滋野家の子育て教育の特徴は子供が独り立ちできるまで親がしっかりとケアしていること。治夫が滋野に、滋野が子供たちにそうしてきた。妻のイアラ夫人は中学時代の同期生で滋野が親から独立した71年に結婚した。夫人との間に息子2人と娘1人、孫が6人いる。長男は滋野グスタボ治夫で45歳、次男は滋野ギレルメ光明、長女は滋野カロリーナ。夫人は93歳になった滋野の母・トヨを実の母のように毎日朝昼晩としっかりケアしている。

 
 滋野は「経営の実務は4世時代の息子2人と娘に3年前から任している」と語り、「3世の私の経営時代より4世時代の方が収益性は増している」と4世世代への経営権の移譲が正しかったことを認めている。それは4世経営者がブラジルを熟知し最新の経営手法と経営テクノロジーを自分のものにして、さらに世界の最先端情報を収集しその分析と最良の選択肢が自然体で備わっていることでもあろう。

 
 2014年からサ紙紙上で日系人経営者の記事を書いているが、ブラジル邦字紙にも日系の各種公的団体にも全く知られていない、いわば世に名が出ていない実力派の日系人経営者や事業家がブラジル国内には数多くいるに違いない。滋野光明はまさにその1人だった。(敬称略 文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2018年4月3日付け

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