ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 (91) 山岸 照明

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

マナウス経済特区の大御所は84歳でも現役人生
ブラジルとともに55年、日伯間を結ぶ傑物の1人

山岸 照明 山岸コンサルタント社 社長

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 (91) 山岸 照明

 今回は80年代半ばから94年代前半までの「失われたブラジル」と94年後半以降の「世界の中のブラジル」という2つの時代の節目を経験し、63年のブラジル移民以来、ブラジルの経済と企業の変転を知る会社コンサルタントとして、マナウス経済特区で活躍している山岸を取材した。長年、ブラジルの経済文化ともいえる、目まぐるしく変わる制度や法令、税制や労働法などで、多くの内資や外資がこれに振り回されてきた。これを企業に適切にアドバイスをしてきた山岸の存在感は一段と重みが増していた。多様性の国であり世界の大国であるブラジルは、同時にアミーゴ社会でもあり人間関係の大切さは極めて重要だ。山岸はこの点にも通じており、マナウス経済特区で日本からの進出企業に特化したコンサルタント一筋で生きてきた。戦後移住者の中でも、一般的な移住分類に入らない独自の世界を築き上てきた異色の人物でもある。84歳になったいまも現役活動を続けている。

 ブラジルとの縁は57年に慶大法学部を卒業後、丸善石油に入社したが当時の若者に流行していたのが海外移住の夢で山岸もその1人だった。62年に会社を退社し、当時、ブラジル移住に強かった力行会に62年に入会した。そして力行会第105期生として29歳の63年にサントスに着いた。移住後、数年間各地を転々とした浪人暮らしの後に、69年から法学部卒の肩書を生かして「ブラジルの労働法」に強い山岸として、マナウスでアマゾナス製鉄所の労務管理部長としてサラリーマン生活を続けた。その後、96年まで3社の幹部職を経験し、この間にマナウス経済特区のコンサルタントとしての総合性と専門性が身に着く自己研鑽に努めていた。

 97年からコンサルタント業にどうして転身したかを聞くと「当時はマナウスの経済特区を知る日本人は1人もいなかった。唯一私だけしかいなかった」。山岸がコンサル開業する以前は特区の工場進出に関する調査だけで平均2年かかっていた。「いま思うとこの特区は日本企業が来なかったら成功していなかったと思う。アマゾナス日系商工会議所への加盟会社は37社前後、この特区には外資が400―500社加盟しているが全体売上高の20―25%は日本からの進出企業が占めている。日本企業の従業員雇用率も年によって異なるが18―28%に達している」。

 ところで山岸コンサルタント事務所は97年に設立され本社所在地はマナウス。主な取引先は日系進出企業。「信用・安心・安全」に嘘はなく、得意先や取引先はコンサル活動を山岸に依頼し、山岸も「努力と誠心誠意を貫く事」でその期待に応えている。業務内容は、マナウス経済特区における工業プロジェクト設立に関する、調査資料の提供、現地法人設立、税制恩典認可申請プロジェクトの作成及び認可取得、工場物件の斡旋、人材採用、機械設備や材料などの輸入手続き、関係当局との折衝など全ての業務のコーディネート。代理店業務。アマゾナス州天然資源の開発事業。この業務はまさにオールラウンドの能力と実力が備わっていないとできない仕事だ。もちろん、日本語、ポルトガル語、英語ともに専門分野の言葉にも通じておく必要がある高度な専門性も必要だ。

 さらにこうした業務の遂行で進出企業に対して山岸のコンサル業として最も得意分野が次の3点だ。

・「日系進出企業に対してマナウス経済特区制度の最大活用法を教えること。この具体例は現地プロジェクトの計画を作成して許可を得ること。過去23社が会社設立をしたが100%許可させている。1番早いのは8カ月で許可をとっている」

・「アマゾンには隔離された排他性がある、それ故にアマゾナス州とは呼吸の合わせ方を学ばなければならない、これが1番大切なこと」

・「現地の人材をいかに最大活用するか」

 この3点に山岸のいままでの体験と経験のエキスが集大成されている。

 こうしていままで山岸がコンサルしてきた日本の主な契約会社は、ブラジル住友商事、ブラジル日産ブレーキ、ブラジル久光製薬、ブラジル日本精機、ブラジルパイオニア、ブラジル東芝、ブラジルホンダロック、マナウスキャノン工業、などの企業があるが、日本勢以外でもブラジルシーメンス(ドイツ系の世界企業)が山岸のコンサル力を認めて拡張プロジェクトの作成を依頼してきた例もある。その他、各社の拡張や多角化プロジェクトの作成、現地法人設立など数多くの企業のマナウス進出を手助けして来た。お世話になった多くの企業からは「助けの神」と言われるが、生半可な常人ではとてもできない仕事だろう。誰も出来ないことをやり遂げてきた山岸には人生の輝きがあった。

 ここからは山岸の人生を紹介したい。34年に東京・京橋の資産家の家で生まれ、父・良雄と母・治枝の間の3人兄弟の次男として生まれた。次男だが長男(幼児の時に逝去)、妹・あつ子の2人兄弟で、いまの心境は「墓守を含めて最終的に日本に帰らざるを得ないと思っている」という。 当時の山岸家は父が若くして逝去し、母と祖母の女手で育てられた。「祖母の厳しい教育で育った、特に礼儀作法」がそうだった。慶大法学部を57年に卒業したが、なぜ慶大受験を志したのか。その理由は「父が慶応、私は小学校、中学校は成城中学で、成城高校1年の時に慶応大の馬術部から慶応編入を勧められ慶応高校に転校」した。57年に慶大を卒業。叔父が近衛騎兵でよく馬に乗っていた関係で馬術が上達した。いまでもマナウスでスポーツとして毎週土曜日に乗馬している。ちなみに学生時代の思い出は「馬以外の話は出てこない」という。またブラジル山岸照明家の家族構成は、72年に結婚した妻はアウローラ山岸。妻の内助の功は「これはありすぎる、全て家のことは家内がやってくれている、ありがとうに尽きる」。子供は長男・ミッシェルは43歳、カンピーナス大の教授で博士号を取得、高校までマナウスで生活。長女・パトリシアはサウスレイクシティ大に留学。

 一方、祖母の家系は日本の石油業界のさきがけの1人・山岸喜藤太で新潟沖の石油開発のパイオニア。また母方の祖父は新潟から北海道にわたり北海道からヨーロッパに大豆を輸出して大儲けをし、北海道から出た第1号の貴族院議員(もともと医者)・高橋直治(小樽の高橋倉庫の社主)で北海道発展に尽力した1人。高橋は「ブラジル行きは男の本懐だ」とブラジル行きを自分のことのように喜んでくれたのはこの大叔父だけで、ほかの親族は皆反対した。ブラジルは日本の様な学歴社会が幅を効かす社会ではなく、フラット型の社会構造だったこともあり「日本の同化文化や学歴文化が通用しない国として移住当初はブラジル生活でショックを受けた」と本音を語る。

 67年になって人生の進路を決めた新たなショックが訪れた。マナウスのアマゾナス製鉄所で労務管理部長としての勤務が決まった以後の話である。当時現地の人の給料は30クルゼーロ(貧困生活水準)。山岸は500クルゼーロ(十分生活できた)。マナウスに人生を賭けた山岸が生まれ変わった瞬間であった。「人間、お金がすべてではない。自然と一体化した現地の人の生き方に心の底から感銘を受けた。生まれ育った東京の商業の中心地だった京橋とは正反対の異なった社会だった。そこで私の人生観はその瞬間に生まれ変わった。マナウスに来てここが自分の住むところだと肌で感じた」としみじみ語った。35歳になった69年のことである。

 主な表彰は、02年アマゾナス州工業連盟と07年アマゾナス州議会からアマゾナス州工業功労者賞、08年日本政府から旭日小綬章受勲、また03年から07年までアマゾナス日系商工会議所会頭職、と価値ある経歴を誇っている。こうした過去の体験を踏まえ、個人の実力だけでこうした実績をつくり、かつ存在価値のコンサルタントは稀有だろう。マナウス在住の日系人コンサルタントにはない微妙な日本語にも通じる強さも持っている。山岸はいまも毎朝5時から出勤(日本との時差の関係)し、マナウスと日本を結ぶ日伯関係の強化に尽くしている。同時に日本の時代文化やほぼ3年で交代する駐在員とその気質変化。そして企業を取り巻く目まぐるしい変化に積極的に対応して、21年間にわたり進出企業を間違いのない方向でコンサルしてきた、山岸のその適正かつ最善の指導は見事という他ないだろう。

 いまこの特区では米国が投資高で13年以来第1位になっている。この理由は西部アマゾンには将来性のある豊かな天然資源が無尽蔵にあることだ。「今後の注目点はマナウスのこの工業団地は、将来アマゾンの天然資源や薬草の開発が進んでいけば、ここはその橋頭保として存在感はますます増してくるだろう。米国はこの辺りを見通した上で進出している」。こう語った後、「過去にゴムやジュート産業などでブラジル経済を牽引きしてきたアマゾンが、再度ブラジル経済を背負って立つと信じている」とアマゾンの復権に夢を託している。取材の最後に「私みたいなドラ息子が出てこないとだめ」と謙遜を込めていうが、遇直に徹して一隅を照らし続ける人生がここマナウスで輝きを増していた。(敬称略 文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2018年5月16日付

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