ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(44) 奥山啓次

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 44
奥山啓次

日本の精神を守り続け 印刷業を通してコロニア文化を支える
印刷業コンサルタント 奥山啓次 トッパンプレス印刷元社長

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 44
奥山啓次
 日系コロニア文化を印刷業一筋で支え続けて47年。先が読める経営者として今も「誠を大切に、際立つ学ぶ心と人との邂逅(かいこう)」で日本精神を守り続けているのがトッパンプレス印刷元社長で現在は印刷業コンサルタントをする奥山啓次だ。

 山形県出身の1937年生まれで57年20歳でブラジルに移民した。「奥山なら間違いない」と言われ続けて今年78歳を迎えたが、人生を貫く「謙虚さと誠実さ」には確かな真心が脈打っている。この業界は一にも二にも取引先との信頼関係が大切とされ、長年築いてきた信用がなければできない仕事だ。ちなみにこの期間の未回収金は3件のみで借金の踏み倒しが多いブラジルでは例外的な数字だ。同時に創業時代から奥山を支え続けてきたのが夫人の智子だ。「妻無くして今の私はない」というほど二人三脚の開拓者精神で人生を切り開いてきた。

 しかし印刷業を取り巻く変化の波は、80年代後半から日本への出稼ぎ時代に入り社員が減少し、85年以降はすべての面でアナログからデジタルへと時代が移った。印刷業もこの直撃を受け、トッパンプレス印刷も例外ではなかった。結果的に同社は後継者難と時代の流れで2年前に会社を閉鎖した。だが今までの取引先との信用を踏まえ、現在も年間約50件の受注案件を抱えながら印刷業コンサルタントとして日常を過ごしている。幸い事業の継承者として、2人の日系人社員が独立し、立派に顧客を引き継ぎ、奥山の生き方や考え方が反映されている。

 日系コロニア社会における印刷業の中で、印刷技術、職人の腕、品質力、納期、取引先数とその応対力、経営力などで頂点に立っていた同社の事業基盤構築期をまず見てみよう。会社設立の時期とタイミングを見計らっていた31歳の奥山は、68年の創業早々から景気の波に乗った。印刷工場はコンセリェイロ・フルタード街で操業。「妻が管理業務や財務面などで手伝ってくれたおかげで、私は営業に専念し毎日寝食を忘れて仕事ができた」。創業2年目には印刷機械や製本機械設備も整い、72年には新工場を購入し社員も25人まで増えた。低インフレと低金利という運転資金にも恵まれて「今では想像もつかないほど良い時期だった」という。

 同時に「弊社の経営方針は『商いは 高利をとらず 正直に 良き品を売れ 末は繁盛』と『納期を守ること』」、「社員は家族の一員であり常に社員の安心と幸福を思い接してきた家族主義経営」の2点を会社経営の原点に据えた。

 ではなぜブラジルで印刷会社を創業する構想を持ったのか。その理由は青年期、山形県の田舎から東京に出て最初に働いた会社が文京区にあった印刷所だった。仕事の関係で印刷大手の凸版印刷の前を通る度に、「いずれ自分も印刷会社を立ち上げる」と心に誓った。

 結婚したのは65年5月で今年結婚50周年記念の金婚式を迎えたが、この結婚を契機に移住前から温めていた夢であった印刷屋商売実現に向かった。人脈を築いた経済雑誌社を辞め、パウリスタ新聞社系列のパウリスタ美術印刷に入社した。ここの営業部で出色の活躍をするとともに印刷技術の習得に務めた。そして満を持して68年6月、長女の誕生日が重なったこの日に、5人の社員と共に『トッパンプレス印刷社』を創業した。

 この時から85年までの17年間、不況知らずの拡大成長が続いた。ピーク時の社員は80人に達していた。この間に製版会社も立ち上げた。カレンダー、カタログ、各種伝票、ポスター、パッケージなどの商業印刷、日本語学校向けの教材・教科書、日英ポ語による辞典などの教材、日系団体の会報、記念誌・同人誌・文芸誌、俳句・詩集、新聞および自分史などの出版物、さらにプラスチックカードの製造販売など総合印刷会社になっていた。カレンダー及び書類などを含めた年間印刷点数は3000点に達し、年間書籍印刷発行部数は5万5000部発行した。日系コロニアから多い受注品目はカレンダー、記念誌、教科書。日系進出企業も大多数の会社が印刷物を同社に発注し、カレンダー、各種商品説明書、事務用反端物印刷や名詞などが多かった。さらに取引先もサンパウロ州、パラナ州、リオ州、パラー州べレン、アマゾナス州マナウスなど、全伯規模の商圏を築いていた。この約50年間の歴史を奥山に要約してもらうと「60年代は日本企業の進出全盛時代(創業時代で大半の受注先は日本企業)、70年代はブラジルの奇跡と言われた高度経済成長期(特注カレンダー、商品説明書などの引き合いが殺到した当社の躍進時代)、80年代に入りブラジル経済は徐々に景気後退期に向かう(中頃から日本のバブル経済でブラジルからの出稼ぎブームが起こり、同社の社員も一挙に10人が退社して日本に向かった)。90年代に入ると日系コロニア企業の代表格であった南伯産業組合、南米銀行やコチア産業組合が相次いで倒産し、日系団体も縮小や撤退を余儀なくされた、2000年代は日系コロニア160万人の冬の時代。10年代はサッカー・ワールドカップ終了後から未曽有の大不況に襲われている。ピーク時80人だった社員は1998年には30人に、2013年の会社閉鎖時には10人になっていた」。

 奥山は「印刷業とはサービスを売る仕事と心得、顧客の要望に応えるように努めた。同時にかわいい子供を世に送り出すような気持ちで、一点一点愛情を込めて制作に取り組んだ」。この間、特に思い出に残る印刷物を2点挙げてもらうと、「まず1995年6月に発行した『家族構造と社会的移動性』(日本移民に関する研究)で日ポ英版。これはルッチ・コレーア・レイテ・カルドーゾ博士の学位論文で、当時のカルドーゾ大統領夫人だった人。この出版がご縁となりシーザーパークホテルで行われた出版祝賀会でも親しくご面談の機会を得た。ついで2012年11月に発行された『ブラジルの日本移民100年史』(ブラジル日本移民100周年記念協会)の第1巻・第2巻・第4巻・第5巻を世に送り出し、これが弊社の最後の事業となった」と、同社の歴史をかみしめるように語った。

 また「様々な業界人を始めとして日伯間の人的交流で多くを学べたことを嬉しく思うし、移民して以来7年間の農業体験後、生涯を印刷人として全うできたことを幸いに思っている」。続けて日系コロニア社会で果たしてきた同社の役割について「会社設立後、およそ半世紀にわたり『日系コロニアと共に』を合言葉に、日系ブラジル人を対象にした日本語の教科書作りや、また各種日系団体の記念誌や個人史、同人誌、新聞など数多くの出版物を手がけ、お手伝いが出来たことを誇りに思うとともに、感謝している」と人徳がよく分かる。

 こうした立派な人生を歩んでいる奥山の人物像に入ってみよう。

 1937年7月17日に3男4女の末っ子として山形県東根市で生まれた。父は善治郎で1905年生まれ、母のチエは08年生まれで二人は同郷だった。もの心が付いてきた7歳の時、父が終戦の年に40歳の若さで逝去し、当時18歳から幼子まで7人の子供を母が一人で頑張って育ててくれた。食べ盛りの少年期には戦中戦後の食糧難が襲い、「幼少にして父を失い高等教育が受けられなかったことが今でも残念」という。しかしこの時期の夢は「子供が好きで将来はお寺のお坊さんか学校の先生になりたかった」という志のある少年だった。母からは「嘘をつかない」「謙虚に生きること」「他人に後ろ指をさされるな」と教わった。それが今でも生きているという。「人生の折々に、必要な時に必要な人に出会い助けられた。仏教用語の性善説を信仰している」。

 趣味はゴルフ。仲間のゴルフコンペ月例会でも最近、グロススコア80台で回り、ネットはアンダープレーで優勝した。

 65年に結婚した妻智子はサンパウロの郊外都市スザノ生まれの日系2世。子供は3人で長女がミリアン小百合、次女リリアン明美、三女ルシア美智恵、孫アヤ(亜耶)とクララ・ケイの2人で、ブラジル奥山家の総数は20人を超える大家族になっている。

 ブラジル山形県人会が45周年記念として98年に発行した「山形青年史」の中で、移民して農業を7年間、そしてサンパウロに出るまでを奥山自身が記した半生記によると、「56年の19歳の時、自分の将来に光明を見いだせず悩んでいた時、海外移住の窓口である山形県農村建設青年隊に採用され、西回りのオランダ船籍『チチャレンガ号』で57年10月17日に70日近い船旅でサントス港に上陸した。最初の移住場所はサンパウロから20キロ離れたイタケーラ移住地の西山農場に配耕された。1年半後、野菜作りで儲かると聞いてサンパウロから1200キロ離れたブラジルの最南端であるリオ・グランデ・ド・スール州ポルト・アレグレ市近郊の日系人農場で働く。そして歩合作で2年半働いたのち、新たな光を求めてサンパウロ郊外のモジ・ダス・クルーゼス市で独立農を目指して働くも、農業での自営は天運にも見放され人生で始めて挫折を味わった。その後サンパウロに移転し農業に代わる新たな職を求めた。そこに幸運の女神が降りた。ブラジルに移民した山形県出身の大先輩の紹介で経済雑誌社に就職した。そこでは水を得た魚のように八面六臂の仕事ぶりと人柄を評価され、コロニア指導者などから信頼され多くの知遇が出来上がった』。これは『将来の私の仕事にとって計り知れない恩恵があった』」という。

 また当時の同史にこう書かれた言葉もある。「私の人生で最大の出会いは結婚以来33年もの長い間連れ添い、人生の辛苦辛酸を共にしてきた妻の智子であり、その理解と協力なくしては、今日の私の人生はあり得ないと感謝している」。

 取材の最後に自分にとってのブラジルとは何かを聞いてみた。「今日までの78年間の生涯の中、31歳で独立するまで10人のパトロンに仕えたが、ブラジルに移住したことでその経験が生かされ、自分の会社を持てたことを本当に幸せと思っている。丸裸で移住して素晴らしい人々との出会いがあり、また良き時代と良き仕事に恵まれたと思っている。過ぎたる幸運に感謝している」。

 創業時、家主のブラジル人から『日本人なら無条件で貸してあげよう』と言われ感動したが、これも戦前移民たちの『正直と勤勉』が土台になっていると思う」と先達に敬意を表している。

 そして、「もし『いまの心境は』と聞かれたら、『移民とは永遠の旅人である』と答えたい」と含蓄があり余韻のある言葉に続き、「座右の銘は『夫子の道は忠恕のみ』」と結んだ。(敬称略、筆者=カンノエージェンシー代表・菅野英明)

2015年12月2日付

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