ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(79) 月 淳

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

事業を通してアマゾンの地域発展に貢献する
栃木県出身者の顔となった大和魂を貫く経営者

月 淳 ツキ企業グループ (北部額縁製造所)社長

 自然との共生や環境保護の流れで、壊滅的に淘汰されたのがアマゾン流域にあった世界中から進出していた合板業界。三十数社あった会社数はいまや数社を数えるのみだ。あのブラジル永大木材もベレンからの撤退を余儀なくされている。この過酷で厳しいサバイバル競争に勝ち残ったのが、1代で同社を築き上げた栃木県那須郡出身の、サムライ経営者で知られる月淳だ。社名は北部額縁製造所(1988年に会社設立)でグループ会社の中核企業。建築用化粧材や額縁を製造販売している会社だ。時代変化と需要ニーズに対応し、絶えず柔軟性ある事業構造の変革を行っている会社でもある。世界を相手に、顧客ニーズに沿ったマーケティング戦略と優良顧客の選別化で、事業を継続発展させている確かな経営力には定評がある。

 同時に評価すべき点は、ベレン市、パラー州政府、アマゾン開発庁、ブラジル政府が望んでいた未開発地域の経済振興を行っている点だ。ベレンの中心部から南に向かって75キロ、州道から舗装のない赤土のデコボコ道を川に向かって12キロ走るとポロロッカ逆流が起こる基点といわれるアマゾン川支流のグァマ川を沿うように同社の工場群が建っている。地名はヴィラ・ペルナンブコで日本人移住地だった旧グァマ植民地跡に立地。90年にこの土地を買い取り98年にこの地に工場移転した。工場敷地面積だけで40万平方㍍あり港湾施設がある港も持っている。公害や人的影響の出ない製材合板工場の製品ゆえに地域住民にとっても安心と安全が保障されている。それに伴い地域開発が進み雇用が創出され工業化による恩恵を地域住民が享受している。いま約50名の地元従業員を採用(ピーク時は100名超)し地域社会と共存し地域社会の安定と発展に大きく貢献をしている。

 こうしたアマゾンのジャングルの中に工場を立ち上げ、開拓者精神が迸る月の半生を回顧してみよう。生まれ育った栃木県那須郡では代々で500年以上続く月家は由緒ある家柄である。山林を20ヘクタール持ち田畑も村で1番大きい。月淳は父・ユウキと母・セツコの間に57年に生まれた。子供の頃から負けず嫌いの頑張り屋であり、冒険心と好奇心が旺盛で、誰にも負けない根性も持っていた、行動力のある少年だった。その当時の15歳の時に不動産で大成功し事業を手広くやっていた叔父にこう言われた。「お前は学業より商売に向いている。俺が日本料理店を出してやるから5年間修業して来い」と言われた。因みに月の従兄弟でこの叔父の長男は宇都宮市で餃子販売店をやっており、いまでも県下トップの餃子を売っている。月も夜間高校に通いながら昼はソバ職人目指して修業し続けた。しかしソバ屋で働くと夜間高校を卒業できないほど毎日忙しかった。しかもそばとそばつゆは格別うまく出前が多い繁盛店だった。さらに出前のピークは夜の7時から9時までが配達のピークだった。結局2年間働いてやめた。

 17歳の半ばに市役所でブラジル移民のチラシを初めて見た。そして取りつかれたように移民相談所に向かった。移民募集の案内である。兄弟は4人で月は3男坊、多少の気軽さもあったし、何よりも前向きに生きる人生が月少年の持ち味でもあった。当時は17歳、単身移民は18歳からだったので職員から「とりあえず群馬県海外移住研修所に行って話を聞いたらいい」といわれた。そこでは「ソバ屋ではダメ、農業経験も農業高校も出ていないので18歳でも無理だ」と言われた。決断の末に月は東京都にある海外移住事業団に出向いた。この移住話をそこでしたら「18歳にならずとも君の場合は例外的だが研修を受けてよろしい」との許可が出た。月の性分である取組んだら物事を勝ち取るまで頑張りぬく見上げた根性と執念を見せた。

 研修所で18歳未満だったが無事卒業した。次は移民生活に備えた国内農家での農業実習である。月は群馬県の妻恋村の農家でキャベツづくりなどの農作業に励んだ、しかし農業移民を受け入れるブラジルからの雇い主農家が出てこなければ移住できない。時間が刻々過ぎていったが、ついにその時がやってきた。ブラジル北部のパラー州ベレンに近いアカラ移住地の今野さん宅への配耕が決まり晴れてブラジル移住となった。ブラジルへの移民が打ち切りになる最後に近かった。1976年で19歳の時だった。しかも時代は船から飛行機に代わっていた。ブラジルで今野さん宅への配耕がその後の月の人生を決めた瞬間だった。今野夫妻とその家族は月を我が子、我が家族、同様に大事に可愛がってくれた。

 パトロン(雇い主)に仕える最低賃金でコロノ暮らしを経験した。その後、独立し、自分で買った25ヘクタールの土地(コロノ暮らしの21歳の時に2000米ドルで購入)に胡椒栽培(収穫まに3年かかる)で一旗揚げようと取り組んだが、運にも恵まれず農業を諦めた。同時にこの時期は収入がないため生きていくために製材所も立ち上げていた。理由は主に日系人農家が、倉庫を建てたり物置を作ったり、家を拡張したりと、結構な需要があったことだ。4年間にわたり製材業を行うが83年に売却した。これを元手にベレンに建築資材販売店を立ち上げた。勢いに乗って5店舗まで店が拡大した。

 ところが木材相手の製材所経営に男の生き甲斐を見出していた月は、88年に店を閉鎖して、新たにサンドミンゴス・ド・カピンに再度製材所を立ち上げた。その後、グァバに移転し、乾燥させた端材を利用してソファーの骨組み用材や額縁用材、ベンチ、デッキ、遊歩道用材など、月らしい特徴があり独自性のある隙間的製品開発で勝負に踏み切った。ブラジル経済の景気変動もあり輸出市場にも取り組んでいた。10年後の98年からは現工場で国内外への輸出を本格化させた。現在では月間350立方㍍を販売し、国内販売だけでなく日本・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアなどに輸出し、20―40トン容量のコンテナを月に4本、国内向けには月に60立方㍍(ピーク時は月500立方㍍)容量のトレーラー3台を出荷している。

 こうして商売を軌道に乗せた月のアイディアと経営センスが分かる例がある。工場で使う用材全量のうち約30%が端材になるが、この資源を有効活用して事業化させたところがいかにも月らしい。まず端材の再利用だが糊付けや防虫処理などをして額縁用材に再加工し製品化すること、これはアメリカ市場で受け入れられて輸出も急拡大し、同社の主力製品の1つに育てたこと。ついで用材加工から出るオガクズを鶏糞と混ぜ合わせることで、軟木のオガクズは腐食し肥料となる、これを養鶏場に販売している。さらに腐らない硬木のオガクズと小木片はボイラー用燃料として再利用。この結果、用材の95%が経営資源として再利用されている。この3点の話は、会社財産の最大活用であり無駄を出さないという日常生活における月の心構えと経営哲学が集約されているようだ。

 さらに長年にわたりブラジル経済の変化や変動を熟知する月は、失敗しない経営にも長けている。事業のピークを迎える前に経営決断し事前に事を処している。いわば事業を読み切る、経営を見通す、経営者として、集大成され磨き抜かれた感性と読みは、他の追随を許さない独自なものを持っている。本人は「その時その時を必死にやって乗り越えてきたからいまがある」と言葉をかみしめるように語った。さらにいま難しい経済環境下だが「グループ全体で余裕を持った経営が多少できることは幸せだ」と目が輝いた。

 昨年60歳の還暦を迎えた月が率いるツキ企業グループは、北部額縁製材所(月淳社長)、額縁木材会社(社長は礼子夫人)、輸出会社のエクスポーターズ・カタリーナ社(社長は礼子夫人)、マキタ(アフター)サービス社(長男の宗光が社長)、マキタ販売代理店2店舗(社長は長女のアヤメ)の5社から形成されており、礼子夫人と次女のセツコがグループの経理を担当し、長女の夫・マコトがグループの経営全般を担当している。ブラジルの一般的な大多数の会社がそうであるように月ファミリーも全員が経営参加して事業を行っている。またこのグループ事業の中で、販売代理店契約をしている株式会社マキタ(本社・愛知県安城市)は、DIYで知られ世界150か国以上で電動工具類を販売しているが、今年はマキタ本社社長もベレン店を訪れるほどの優良店になっている。これを育て上げているのが月ファミリーなのだ。

 1に体力、2に気力、3に先手必勝、といわれるブラジルの経営土壌だが、月はそれ以上の胆力と拓魂精神を原点に、大和魂を全開させて事業家人生を生きている。温厚で遠慮がちといわれる栃木県の県民性を考えると異彩を放っている経営者だ。まさに栃木県が生んだ事業家・月の面目躍如である。(敬称略 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

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