ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(81) 長南 俊

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

引退後もブラジルニンニク業界の頂点に立つ
 全伯ニンニク栽培の50%が『長南種子』を使用

元フレイ・ロジェリオ市 初代市長
兼元長南農場 農場主

 長南ニンニクの種子が占めるサンタカタリーナ州(SC)内での栽培比率は約60%に達し、ブラジル国内でもその栽培比率は約50%と、驚異的な市場占有率を誇る栽培用『長南』ニンニクの種子。ブラジルで初めて国産ニンニクの栽培を成功させた日系人農業技師がブラジル南部の同州クリチバノース市に住んでいる。その人が長南俊(ちょうなん・たかし)だ。今年80歳を迎えるが、現役を退いたいまでも国内ニンニク業界の頂点に立つ立志伝中の人物だ。60年代までスペインとアルゼンチンからの輸入に頼っていたニンニクを、この新品種のニンニク栽培を通して、地元のクリチバーノス市やSCの地場産業の振興や地域経済の発展及びブラジル農業界発展一筋に貢献してきた。

 そもそも長南がニンニク栽培に関心を持ったのは、62年のブラジル南部地方の視察旅行だった。SCのラージェスで移民の同船者だった神保定に会い、SCがニンニクとリンゴ栽培の最適な生産地であることを知ったのがきっかけだった。この栽培が成功に至るまでの話が95年に受賞した『山本喜誉司賞』の功績理由に書かれている。「60年代当時、ブラジルのニンニク消費の殆どが、スペインとアルゼンチンからの輸入で占められていた。国産品としては、ミナスジェライス州の早生系のものが多少出回っていたのみであった。品質的にも、皮が薄く、小燐片が数多くついた。日持ちの悪い、質、量、とも輸入品には及ばなかった。長南はブラジルの栽培地より、十数種類の種子を取り寄せて、外国産を合わせて選抜を始めた。74年にリオグランデ・ド・スール州の在来品から優良品種の選抜に成功。75年EMBRAPA(ブラジル農牧研究公社)からその品種を『長南種』と命名された。クリチバノース市をブラジルでの一大ニンニク生産地とした」と記されている。そのあたりの事情を改めて本人に聞くと、「球根を覆う表皮の色が白く、ニンニクの身は12~13個の鱗片で形成される。鱗片の薄い皮は紫色。長い間ブラジルがスペインやアルゼンチンから輸入していた品種に似ている。地道な努力と研究の積み重ねで辿り着いた結果が、77年の「第1回ニンニク品評会」で最優秀品種と認定され改めて長南種と命名された」という。

 ブラジルにいままでなかった新農業となったニンニク栽培は、地場農業を育成したいSC政府や地元のクリチバノース市からのバックアップとともに、長南の栽培農家への熱心な指導とニンニクが現金収入に直結する農家の栽培熱が加わり、SCはブラジルでも代表的なニンニク生産地になった。現在では州内の栽培総面積が1600haになっており、栽培農家数は約1000家族。因みに、リオグランデ・ド・スール州が1800ha、セラード地帯で2000haが主な生産地だ。その他の品種もほとんどのブラジル国内生産ニンニクは、長南ニンニクに類似している。同時に「ミナスジェライス州やゴイアス州などのブラジル中部で生産するにあたってはSCで種を作って補給した。そのためには何日間かの冷凍処理が必要で、そういった技術も開発した」という。

 いま長南農場は10年前から娘婿が経営、「自分も毎日農場に見に行って世話をしている」と、引退宣言はしたもののいまも心身ともに現役だ。その農場は、ニンニク栽培面積30ha、従業員は植え付けから収穫までで100人程。主な出荷先はほとんど卸問屋で、州外販売先の主要都市は、サンパウロ、リオデジャネイロ、サルバドール及び近郊、ベロ・オリゾンテ、マナウス、ブラジリア等。地元の組合や業者を通じて販売している。「長南農場ではいまは相談役的な立場だ。娘しかいなかったので後継者については考えず、一代限りで終わりにしようと思っていたが、農場の灯が消えなくてよかった」と思いを込めて語った。

 一方、中国産のニンニクが93年から、不当な安値で大量にブラジルに入ってきた93年当時、(ブラジル)ニンニク生産者協会(ANAPA)の会長(合計で2期4年)(現在は名誉会長)を務めていたのが長南だった。業界に深刻な影響を与え、その打撃は極めて大きかった。数年かけて「ブラジルのニンニク業界が一丸となって戦った。私もその先頭に立った1人」だったという。

 こうした人物像を読んで分かる通り、長南には世のため人のために尽くすサムライ精神が全身に貫かれている。その生い立ちから紹介しよう。山形県でも豪雪地域の大蔵村の出身で、父・銀作と母・うらとの間で、9人兄弟の7番目として38年に生まれた。「育った地域は日本でも貧困地帯だった。特に戦後はひもじい思いもした。時々日本に帰った時も生まれた土地でなければいかないような所。その中では自身の家庭は中の上程度。当時高校へ進学するのは学級に1人いるかいないかだったが、その中で自分は高校へ進学した1人。体が弱く栄養失調状態だった。生きることに必死で学校の勉強どころではなかった」というほど少年期は苦労した。

そして新庄農業高校卒業後の58年9月、21歳の時に単身移住した。理由は「牧場経営をしたい」だった。父からは「どこへ行ってもいいが、悪いことだけはするな」と言っていたので、その教えに従って生きてきた」という。コツコツと仕事をする性挌で、63年、SCのラージェスからラモス移住地の造成を指導した。ブラジル長南家は妻と娘3人。夫人は日系2世のLilaいずみで61年に結婚した。以来57年目になるが「家を空けていることが多かったが、しっかりと子供教育をしてくれたことに感謝」している。子供と孫の名前は、長女がLianaまりで孫がEdson俊、Lilianまり、Suzanまきの3人、次女がLednaldaしずえで孫はAndreia、3女がMarizaあけみで孫はIzabela Jovana。SCに移住して良かったと思うことは「SCはヨーロッパ系移民が多く、ブラジルの中では教育水準も高い地域であること」「この高原地帯はブラジルでも珍しく寒いので、作物を作るのには向いていないが人間が住むのには健康的な土地で気候が良い」。

 いまSCには約1万5000人の日系人が暮らしている。その誇りは「リンゴやニンニク生産の大部分が日系人の貢献によるもの。そのことを多くのブラジル人も評価している。リンゴ生産などに見られるように日系人の手によって生まれた農作物が、一部輸出されるまでに評価され広まったこと。また、子弟に良い教育を受けさせている」ことだ。

 長南は「私は経営より農業技師として、コツコツと良い品物を作るために働くことが好きだが、結果的にそこには時間をさけず、人の世話や団体の世話を頼まれるようになった。そういった点では、農業移住者として少し変わった道を歩んできたかもしれない」と自分自身を語る。こうした功績が認められ、96年にはSC州の名誉州民賞を受賞している。「製材業が廃れ、失業者が増えていた時期に、ニンニク栽培によって雇用を創出したこと。その時も、自分ではそのような目的のためにしたわけではなかったので、そんな価値があったのかと後から思った」という。同州では日系人として初めての受賞だった。相前後して同年にクリチバーノス市から分離し、新しく誕生したフレイ・ロジェリオ市の初代市長にも選ばれた。「81年から86年までクリチバーノス市の市会議員を歴任したので、その経験を評価された。その他、農業組合の組合長等も務めていたので、その頃の経験などを知っている人達が投票してくれた。いつもブラジル人の協力者がいたこともよかった」。

 (ブラジル)ニンニク生産者協会の会長、農協理事長、日本人会会長、市会議員、市長など数々の公職を務めてきた長南が、自分の人生で最も大切にしてきた言葉が『献身』だ。「これまで農業組合やニンニク生産者の保護などに献身的な働きをしてきた。自分が始めたニンニクの生産に対して、それに携わる人々のために様々な働きを行ってきた。そういった活動をSC政府なども支援してくれ、政治家の友人も多くできた。それがその後の市会議員や市長への出馬に繋がった」とサンタカタリーナ州のサムライ・長南はこう語って取材を結んだ。(敬称略 文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

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