ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(87) 岩田 健一 ㊤

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者

養鶏とボランティア人生に全力尽くす輝き
夫婦愛で築いた養鶏業、来年は創業40周年

岩田 健一 Ovos Tamago社 社長

ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(87) 岩田 健一㊤

 サンパウロから北に向かって道路距離で2650キロ、レシーフェの岩田といえば、2014年のサッカーW杯ブラジル大会開催時に、この地で日本対イタリア戦が行われた時に、岩田を中心に当地に住む日系人は、日本応援のサポーター向けに手袋型の日の丸を作りスタジアムで配布した。これは当時の日本のテレビでも報道されて時の人になった人物だ。

 
 来年ブラジル移住60周年を迎える岩田は、同じ来年にブラジル岩田健一家の養鶏業創業40周年の記念すべき節目の年を迎える。養鶏業商売はいまペルナンブコ州で卵販売市場の9%を占め第3位の規模、また同州のウズラ卵市場では90%を押えて圧倒的な第1位、と存在感のある事業を行っている。

 
 ブラジル日系社会の中で岩田ほど商売とともに、地域日系社会のために尽くし貢献してきた人物は、同世代では極めて稀有と思われる。59年にレシーフェから130キロ離れたリオ・ボニート日本人移住地に最初に入った第1次入植者の1家族が岩田家で、当時7歳だった。一家は山梨県県境に近い長野県富士見町からの移住だった。

 父・国一と岩田の共通点は、お互いに養鶏業では創業者であり、レシーフェ日本文化協会の会長を経験していることだ。父は90―92年までの1期2年、岩田は00年から06年までの3期6年務めた。全伯各地の同じ文化協会では父が文協活動に奔走し子供や家族をないがしろにした状況が多々あり、子供が親の跡を継いで同じ会長職で活動をしている話はあまり聞いたことがない。この点、岩田父子の公僕精神は賞賛に値するだろう。

 また岩田は、06年・55歳の時にペルナンブコ州養鶏業の発展に貢献し雇用の増大や地域貢献に尽力したことで、日系人初の名誉州民章を受賞している。さらに、文協の会員が各種の催しを気兼ねなくできる場所をつくることを目的に、レシーフェ日本文化協会(略称・レシーフェ文協)会館づくりに取り組んだ。会館づくりの構想から完成に至るまで、同協会会長だった岩田は会員の先頭に立って、会館の敷地探しや用地買収の交渉や購入などを手掛けた。さらに建築資材をベレンから調達するなど連日にわたり建築進展状況の指示や確認作業に携わっていた。もちろん会館完成には当時の役員など文協会員が一致協力して取り組み、立派な會館を05年に完成させた。

 同時にレシーフェの日本祭りを定着させた功労者としても知られる。1年に1回、11月の日曜日1日だけ開催されるが、年を追って参加者が増えて昨年は延べ人数で1万人以上に達した。日本からコスプレ文化をこのお祭りに持ってきたのも岩田だった。

 岩田は公私ともにレシーフェでは知る人ぞ知る有名日系人である。地域密着をバックボーンに、地域とともに、日系社会とともに、レシーフェとともに、この地域で日伯関係を繋ぐキーパーソンの1人になっている。今年67才になった岩田を取材していくと、養鶏とともに人生があったのではないか、と思えてくるほどの縁がある。少年期、青年期、また大学在学中も、そして卒業直後からも、結婚生活以降も、岩田と鶏との関係は切っても切れない一生ものになっている。もちろん財を成したのもこれである。

 ブラジルの日系人養鶏家が100万羽以上を飼育する大手業者で、夫婦一緒でゼロからスタートし2人が中心になって39年間かけて100万羽以上を飼育しているのは岩田家だけだろう。

 その内助の功、絶大だったのが和子夫人の存在だった。岩田がペルナンブコ州立大・農学部在学中の77年にJICA研修生として千葉県で2年間農業研修を学んだ。留学を終えた79年、ブラジル帰国の際にたしか行きは独身だったはずが、帰りには父が警察官であり東京都東村山市在住だった新妻・和子を伴って日本留学から堂々と戻ってきたのであった。その和子の義父からは「君はいい男だ、信頼できる」と一目惚れさせた。そして早々と留学中の77年10月に結婚した。岩田とは1つ違いの52年生まれ。結果的には妻探しの留学だったとひやかされても仕方あるまい。しかし岩田とっては超幸運の女神が舞い降りたのだった。

 
 79年に結婚したのを契機に本格的に養鶏業の世界に入った。立ち上げ時こそ父の手を借りたが、タイミングよくJICAからの融資話もあり農地を買って夫婦で養鶏と野菜作りを始めた。ブラジル岩田健一家の最初の飼育羽数は独立したお祝いにと父から分けてもらった2000羽のスタートだった。

 これ以降、毎日寝食を忘れたように夫婦一緒になって、働き、また働き、そして働き続けた。隣町のオリンダに店を出して以来、妻の和子は1日中来店客の接客をし、鶏・卵・野菜を販売した。岩田自身は店に品物を運ぶ養鶏場との往復で毎日が暮れていた。お産直前まで店で働いていた和子の出産時では、自身1人でタクシーに乗って病院に行った、という肝っ玉母さんのエピソードも残っている。岩田を知る友人は「これほど奥さんを働かせた夫は珍しい」と語り草になっているほどだ。

 80年代から94年前半まで十数年続いたブラジルのハイパーインフレ時代を勝ち残ってきた。その理由は「自社生産と自社販売をやったおかげ」だった。レストランや小売業を中心にほぼ全産業が、1日に値上げを1回だけではなく2回、3回する日もあった。この過酷な経済状況の中で勝ち残ってきた結果、養鶏業は100万羽の規模になった。また05年から取り組んできたウズラは年間40万羽生産体制になり州内では最大生産会社になった。

 39年たったいま、経営の実務は子供世代に託している。創業者として北東伯を中心にOvos Tamago社と「JUMBO」ブランドでペルナンブッコ州最大級の養鶏会社を築いた。その日系人経営者の岩田がここの地で日本魂と日本精神を発揮してレシーフェと日本を結んでいる。その貢献度は民間版総領事と言ってもよいだろう。(つづく 敬称略 文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)

2018年4月17日付

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