ブラジル最初の邦人殖民地(終) 桂植民地時代の思い出振り返り

ブラジル最初の邦人殖民地(終) 桂植民地時代の思い出振り返り
ACENBIの会員たち。後列右から2人目がアサノ会長。同左端が西館さん。前列右から3人目が柳沢さん
ブラジル最初の邦人殖民地(終) 桂植民地時代の思い出振り返り
ACENBIの会館

 イグアペ日伯文化体育協会(ACENBI)のアサノ・イチロウ会長に同協会の活動を聞きながら、並行して、かつての桂植民地に住んでいた人たちの話に耳を傾ける。

 10歳まで同植民地に住んでいたという柳沢ノブコさん(73、2世)は、15人兄姉の末っ子として1943年に桂植民地で生まれた。

 41年12月に第2次世界大戦が開戦し、43年7月にサントス港沖で米国とブラジルの商船がドイツ軍の潜水艦に撃沈されたことを受け、サントス及び同地域に住む日本人など枢軸国民に対して24時間以内の強制退去命令が出された。桂植民地に住んでいた日本人もその対象になったというが、ノブコさんの父親の柳沢キシロウ氏とその家族はなぜか、退去命令を出されることがなかったそうだ。

 「お父さんは日本では仏教でしたが、ブラジルに来てからはカトリックの信者になりました。私は10歳の時に尼さんの学校に通うため、レジストロに出ましたが、ジポブラ(桂植民地)では日本語学校もあり、(第1陣入植者の)土屋(タケオ)先生に10人ぐらいの生徒が一緒に習っていた」とノブコさんは、桂植民地での幼少時代の生活を今も覚えている。

 「植民地にあった会館の前では砂を盛って土俵を作り、相撲をしていたこともありますよ」と振り返るのは、24歳まで桂植民地に留まったという西館(にしだて)澄男さん(78、2世)。日本語学校の授業の後に会館でギターやマンドリンなどでバンドの練習をやっていたこともあると言い、「天長節には運動会もありましたね」と思い出す。

 8人兄姉の末っ子で三男の西館さんは、桂植民地で主に米作りを行い、その合間にマンジューバを塩漬けにしたり、ピンガを作ったりして家族を支えた。

 しかし、カミヨン(トラック)の運転手に憧れて24歳で植民地を出てからは、イグアペ市を拠点に野菜、米、ピンガなどをカミヨンで運搬したという。

 また、当時は桂植民地とイグアペ市などを行き来する汽船もあったとし、「1週間に2回ぐらい、通っていたと思う」と西館さん。桂植民地が寂れた原因については「植民地の子供たちが勉強するために外に出ていき、不便なジポブラよりイグアペ、サンパウロなどの街やノロエステ方面に出る人も多かった。1人が(桂植民地に)入ってきても、2、3人が出て行くというように、皆がどんどんと出て行った」と自然消滅的に植民地の住人が減少したことに触れた。

 入植から104年目となる現在、かつての桂植民地に日本人及び日系人はもはや、誰一人として住んではいない。しかし、植民地は無くなっても、その歴史を風化させてはなるまいと、ACENBIの地道な活動が続いている。(おわり、松本浩治記者)

2017年3月17日付

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