マリアナ沖海戦経験の2世㊤ 整備兵だった前田定信さん

マリアナ沖海戦経験の2世㊤ 整備兵だった前田定信さん
マリアナ沖海戦を経験した前田さん

自軍の空母沈没を目の当たりに

 

マリアナ沖海戦経験の2世㊤ 整備兵だった前田定信さん
海軍時代の前田さん(写真は前田さん提供)
「水平線の向こうで、(旧日本海軍の)航空母艦が沈没するのを見ました」――。こう語るのは、日系2世(二重国籍者)ながら第2次世界大戦前に日本に渡り、1944年6月のマリアナ沖海戦(正式名称は「あ」号作戦)に航空母艦「竜鳳」の整備兵として参戦した経験を持つ前田定信(ていしん)さん(92、沖縄)。戦後10年経った1955年に家族の住むブラジルに渡った前田さんは現在、新聞を読んだりゲートボールを楽しみながら日々、元気に暮らしている。(松本浩治記者)

 前田さんの父親は親戚らとともに1914年頃に渡伯し、その後に夫人を呼び寄せ、前田さんはサンパウロ州ジュキア線イタリリ近くのペドロ・トレドで長男として24年12月に生まれた。

 前田さんが1歳の時に母親が亡くなり、子供の面倒を見ることが困難になった父親は26年7月、前田さんを連れて「らぷらた丸」で日本に一時帰国。沖縄県国頭郡羽地村(現・名護市)の祖父母夫妻に息子の前田さんを預けた父親は後妻を娶(めと)り、再びブラジルへと戻って行った。 

 前田さんは地元の尋常小学校及び青年学校を卒業後、17歳だった42年9月1日に佐世保相浦(あいのうら)第2海兵団に志願して入団し、4等整備兵として第49分隊に配属された。しかし、第2次世界大戦前が始まる前にブラジルに住む父親から「戻って来い」との手紙が届いており、41年6月には日本発の船で前田さんはブラジルへと旅立つ予定だったという。

 後から前田さんが伝え聞いた話では、当時の日本では満14歳以上の青年はスパイ容疑を問われるため、日本から海外に出さなかったそうだ。そのため、当時の沖縄県庁から、前田さんが41年6月に乗るはずだった船の出航が延期されたと通知があったが、後にそれが前述の理由で嘘の情報であることを知った。 

 戦後、55年にブラジルに渡った前田さんは父親から「なぜ、あの時(41年)にブラジルに戻らなかったんだ」と言われ、後になってその理由を知り、説明したそうだ。

 前田さんが入団した海兵団では、12~13人が一つの班として3カ月間は基礎訓練を行い、班ごとに長いオールを持って操舵する「カッター(短艇)」訓練をはじめ、「なぜ飛行機は飛ぶのか」という浮力理論などを学んだ。その後、階級改正で2等兵となり、佐世保、横須賀、大村での訓練を経て、44年3月に岩国基地で実践を経験。零戦の整備などを行った。

 同年5月13日には航空母艦「瑞鶴」に乗艦し、台湾沖からフィリピンへ渡った。同月20日に同国のタウイタウイ島から航空母艦「竜鳳」に乗り換え、航空戦の実戦演習後、6月16日頃に第1機動部隊の第3艦隊第2空戦隊の一員として出撃。同19日、20日の2日間にわたって米軍艦隊と激戦が展開されたマリアナ沖海戦を経験している。

 マリアナ沖海戦は、同群島海域でサイパン島上陸作戦支援の米軍機動部隊と、マリアナ守備のために派遣された旧日本海軍の第1機動部隊(小沢治三郎中将が指揮)との間で行われた海戦で、旧日本海軍は複数の航空母艦が沈没させられるなどし、完敗した。(つづく)

2017年2月7日付

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password