マリアナ沖海戦経験の2世㊦ 戦後は生まれ故郷のブラジルへ

 マリアナ沖海戦で航空母艦(空母)「竜鳳」の整備兵として乗艦していた前田定信さん(92、沖縄)は、米軍の魚雷攻撃は受けなかったが、米軍機動部隊艦載機から「竜鳳」の右舷(うげん)に移動させていたアンテナの根元に爆撃を受けたという。当時、空母で艦載機用のガソリンタンク車の固定などの作業を行っていたという前田さんは、約15メートル先に受けた爆撃の直接の被害は受けなかったものの、爆撃による大波の勢いで海に落とされるところだったが、空母外側の鉄柵に守られ無事だった。

 しかし、旧日本海軍は同海戦で空母の「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を失うなど壊滅的な被害を受けた。前田さんは「水平線の向こうで(自軍の)空母が爆発するのを見たが、沈没して、それっきり何も見えなくなった」と回想し、その時の心境については「何もなかったと言えば嘘になる」と多くは語らなかった。

 マリアナ沖海戦を経て、1944年6月23日に沖縄県の中城湾に帰り着いた前田さんはその後、同年8月に松山航空隊に配属。茨城、宮崎、西大分などを転々とした後、再び松山航空隊へと戻り、翌45年8月15日の終戦を同航空隊で迎えた。

 しかし、前田さんらは終戦後の8月16日から同19日まで、戦時中と変わらぬ訓練を受けた。同20日に書類焼却の命令を上官が受け、翌21日に初めて停戦通知が前田さんたちに言い渡されたという。

 「内地」出身の戦友たちは、それぞれ故郷へと帰って行ったが、前田さんによると当時、沖縄と樺太(からふと)出身者は故郷に戻ることができず、同隊で残務整理を行ったそうだ。

 終戦後2カ月経った10月20日頃、同期だった中西康敬(やすたか)氏の兄の紹介で前田さんは、栃木県に行くことになった。同県の鉱山で働くことになり、トロッコを押したりもした。

 48年には沖縄県国頭郡羽地村(現・名護市)にようやく戻ることができ、同地でハルさん(2016年2月に90歳で死去)と結婚。その後、「ブラジルに行けば、子供も安心して育てられる」と、日本で生まれた長女とハル夫人を連れて55年、オランダ船「チチャレンカ号」で生まれ故郷のブラジルに渡り、伯国に呼び寄せた父親と約30年ぶりの再会を果たした。

 「その頃は朝鮮戦争もあったし、戦争を2回も体験したくないという気持ちがあった」と前田さん。ハル夫人は当初、ブラジル行きには反対したそうだが、まだ見ぬ故郷ブラジルへの思いが前田さんを動かしたようだ。

 渡伯後、前田さんは生まれ故郷に程近いサンパウロ(聖)州イタリリで4年間を過ごし、当初は地元で日本語学校の教師をしていた。その後、聖市に出てカンタレーラ(中央市場)の鮮魚店で働いたこともあったが、60年代にパトリアルカ区に移ってからは旧日本海軍で鍛えた整備兵の腕を生かし、電気技師として長年にわたって活動してきた。

 高齢となった現在も、地元のパトリアルカ日本人会で毎日のようにラジオ体操を行い、週に1回はゲートボールも楽しんでいるという。

 新聞を読み、日記も毎日書いているという前田さんは、「海軍で鍛えたから、今も元気で生活できます」と充実した表情を見せていた。(おわり、松本浩治記者)

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