マリンガと周辺の1世たち㊤ パラナ州移民110周年を前に

マリンガと周辺の1世たち㊤ パラナ州移民110周年を前に
植田憲司さん(2018年6月8日撮影)

「フォト・マリンガ」の植田憲司さん

マリンガと周辺の1世たち㊤ パラナ州移民110周年を前に
フォト・マリンガで仕事をする植田さん

 パラナ州日本移民110周年記念行事が、いよいよ今月19日から4日間にわたって行われる。記念式典には、日本の皇室から眞子さまも参加されることが決定しており、準備も大詰めの段階。その開催地となるマリンガ市は、1947年に創設された。パラナ州第3の都市で人口は約36万人。そのうち日系人は約1万5000人と言われており、日本文化が残っているだけでなく経済、政治などあらゆる分野で活躍している。同市や近郊の都市を築いてきた1世たちを3回の連載で紹介する。

 マリンガ市が創設された47年から4年後の51年に移住したのが、植田憲司さん(90、福島)だ。以来、67年間住み続け、町の発展を写真に収め続けてきた。

 植田さんは6歳の時に、「さんとす丸」でブラジルへ移住。しかし、3年後に父親が亡くなり、母1人で兄弟3人を育てた。移住と一人で子どもを育てる苦労から、植田さんは母親から次のことを教わったという。「『健康が何よりも大事』『お世話になった人を絶対に忘れちゃいけない』。僕はこの2つの教えを守ってきた」―。その後の植田さん達兄弟の生き方に影響を及ぼしている。

 17歳で父の友人を訪ねてサンパウロ(聖)市で働き始め、23歳の時に結婚。その当時、兄の故・幸男さんはすでにマリンガ市へ移住し、自身の義父が開いた写真屋で「お世話になったから」と4年間ほぼ無償で働いていた。

 その兄に誘われ、弟の哲朗さんと3人の資金で、51年6月に「フォト・マリンガ」を開業。「昔から写真が好き。父が写真好きだったと母が言っていたので影響かも」と笑う。

 以来、同市の風景を撮り続けた。すでにマリンガ市は創設5年で活気づいていたが、当時は聖市の人に信じてもらえなかった。その時、パウリスタ新聞記者が同市やって来て、その発展ぶりに驚嘆し、翌年の53年にマリンガ5周年記念号を発行。「創立5周年記念祭」、「拓け行くマリンガー」などと記載されたページには、マリンガ創設期の歴史や当時の日本人が創った企業の広告が60ページにわたって載っており、その中に植田兄弟の「フォト・マリンガ(マリンガ写真館)」も掲載されている。

 同写真館は、最盛期には24支店、本店には20人以上の従業員がいた。何かある時には必ず写真を撮りに行き、マリンガ大聖堂建設時や日本の皇室ご来伯時、マリンガ文化体育協会(ACEMA)にある写真や歴代会長の写真も植田さんが撮影したものが多いという。

 ACEMAでは長年文化部長、副会長を歴任し、82年には会長も務めた。また、ゲートボールの普及や老人施設「和順ホーム」の理事を務めるなど、同市の日系社会で長年世話役として活躍し続けた。

 植田さんは、現在も写真家として現役で働き続けている。今は「後世のために、自分の記録してきた写真を残す整理をしたい」と話す。

 「僕以外、誰も持っていないものも多い。百聞は一見に如(し)かずという言葉があるけれど、まさに自分の撮り続けてきた写真は歴史を物語っている」と植田さんは話し、「だから記録を残すためにも、写真を整理する必要がある。どの写真にも思い出があるので、結局捨てられないんだけど」と微笑んだ。マリンガを築いた1世として、今も活躍し続けている。(つづく)

2018年7月11日付

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