マリンガと周辺の1世たち㊦ 佐藤正子さんと脇田正昭さん

マリンガと周辺の1世たち㊦ 佐藤正子さんと脇田正昭さん
脇田さん(自宅で2018年6月9日撮影)

 マリンガ地区日本語学校連合会は、1991年にマリンガ地区の日本語教育推進を目的として発足した。現在、所属校は同市と近郊の日本語学校を合わせて7校で、ブラジルの中でも「日本語教育に熱心な地域」として有名だという。

 同市で長年日本語教育の現場に携わったという佐藤正子さん(75、山形)は、83年に40歳でブラジルへ移住した。「(移住者として)最後だったから、飛行機で移住したの」と話す。

 マリンガ市に移ったのは、その2年後。マリンガ文化体育協会(ACEMA)の目の前に引っ越し、ACEMAの日本語事務として働き始めた。89年には、ACEMAの学生寮で日本語の夜間教室の教師を頼まれ、事務と兼任した。

 90年にマリンガ日本語学校が設立し、佐藤さんは日本語教師と事務を兼任し続けた。マリンガ地区日本語学校連合会設立の準備委員会にも所属。その後、日本語教師は辞めたが、事務職として関わり続けたという。

 現在は一線からは退いているが、「今は若い人がやっているから、手伝ってと言われたらできるだけやるようにしている」と佐藤さん。今もなお、相談は絶えないようだ。

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 佐藤さんと同じように同連合会が設立した当時からのことを知っているのが、相談役を務める脇田正昭さん(80、新潟)だ。当時、脇田さんはマリアルバ文化体育協会で会長を務めており、同連合会では副会長も務め運営に関わった。また、父親の故・脇田俊勝さんは、マリアルバ日本語学校で長年教師を務めた。

 脇田さんは、54年に16歳で「ぶらじる丸」の初航海で渡伯。「戦後に中国から引き揚げて、貧乏だった。食料も足りなくなって、父親からブラジルへ移住しようと言われた」と当時を振り返る。

 最初の入植地はサンパウロ州レジストロ市だったが、「奴隷労働一歩手前だった」ほど過酷だったという。その後、同船者から「パラナ州は良い」と聞き、同州へ移住。日系人がパトロンのコーヒー農場を転々とし、60年にマリアルバ市に土地を購入した。

 転機は、62年にイタリアブドウの栽培を始めてから。父の俊勝さんは、故・山中敬二さんと共にイタリアブドウを63年に初めて収穫する先駆者となり、マリアルバ市を「ブドウの町」と呼ばれるまでに成長させた。

 俊勝さんは、日本語教育にも熱心だった。「父はイタリアブドウを作りながら、日本語学校の教師もやっていた」と振り返る脇田さん自身も、その影響か長年日本語教育に関わり続けている。現在は行っていないが、同連合会では習字を10年間ほど教えていたという。

 マリアルバ日本語学校では毎年、正月に教育勅語を読み上げる。マリアルバ市の70周年記念誌を作成した際も、教育勅語が記載されている。

 「日本人は移住すると、日本語学校を最初に建てるっていうでしょう。教育勅語が精神的な拠り所になるんだろうね」と脇田さん。現在も何かあると、頼られると話す。

 「1世だから、日本語できるって頼まれるだけ」と笑って謙遜するが、同市に長年貢献し続けている日本人として欠かせない存在だ。(おわり)

2018年7月13日付

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