中南米の日本語 ~歴史的背景~③

サンファン学園(日本人シスターによる授業。50%以上が非日系人)

元外務省員  石井 清史 

(5)戦後移住と日本語
本稿の主題を基に中南米における移住の歴史を俯瞰すると、戦前の契約出稼ぎ移住の時代と戦後の移住協定の時代に分ける事が可能です。ブラジルを例にとれば、戦前に約18万人、戦後に約5・4万人が移住しています。戦前戦後を通じて、移住者1世の日本語教育意識は、現地国に在住しながらも、あくまでも国語教育意識であり、帰属意識は日本でした。農業で成功し、日本語を第一言語として習得し、子弟は日本語を話す日本人と結婚させるのが多くの1世の夢であったと言えます。

第二次世界大戦では中南米諸国は連合国であり、日本はドイツ・イタリアと共に枢軸国でした。ペルーでは多くの移住者の資産は没収され、多数が米国の強制収容所に送られました。ブラジルではこれほどの強制措置はなされませんでしたが、移住者・日系人の集会及び日本語の使用が禁止されました。多くの2世・3世は日本語学習の意欲と機会を失いました。この時代は民族意識と国家帰属意識が問われ、日本語に対する意識は母国語から外国語へと急激に変化した時代です。

戦後の移住協定国は、ブラジル(1963年)、アルゼンチン(63年)、ボリビア(56年)及びパラグアイ(59年)の4か国で、農業移住を趣旨に締結されました。当時の日本は、高度成長開始前であり未だ敗戦の貧困から立ち上がれない時代でした。日本政府の移住政策の下、海外移住協会連合会(後には移住事業団、その後JICA)が計画的に移住を実施した時代です。私はこれら4か国の移住地を訪問しましたが、何れの国の移住地も国境地帯や僻地にあり、農業には条件の悪い農地が充当されています。今日では「条件が良くない」と言えますが、国際的地位が低く、職業安定が困難であった当時の日本の現状からみると、「さもありなん」と言えます。

これらの奥地型の農業集団移住地では、勿論、満足な道路・電気・水道も無く、未開の大森林を開拓し、家屋建設・食糧及び飲用水確保・道路建設等をゼロから行いました。私が「さすが日本人」と思える点は、掘立小屋であっても、移住直後に日本語学校を自力で開設し、文字通り、父兄の手により、子弟教育を開始した点です。開拓移住地には現地の教育機関が無く、子弟を現地国籍人として育てる意識は低かったと言えます。

82年~85年に標高3800mの首都ラパスにある日本大使館勤務時代には大使館で働く日系2世と親交を重ねました。彼らは日本語もスペイン語も会話は流暢でしたが、公文書作成になると、何れの言葉でも苦労していました。これは、移住者1世から2世への過渡期に、帰属意識と言語教育がうまくいかなかった例です。他方、教育熱心な父兄の指導とボリビアの高等教育を受け、国費留学し、流暢に二か国語を話し読み書きし、弁護士や医師として活躍している2世もいます。 

また、幼少時に父兄と共に移住し、現地で弁護士資格を取得し、日本語の研鑽を重ねて本当のバイリンガルとなった弁護士もいます。言語教育の成功例の背景を観ると、何れも高度な語学力(母国語=第一言語=スペイン語)を習得した後に本格的に日本語を学習している点です。

いよいよ、日系2世~4世世代の日本語について言及する段階です。次回は日系人の日本語環境について述べたいと思います。(つづく)

2012年12月13日付

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