【移民104周年】伯国唯一の野球用品メーカー

ブラジル代表ユニホームを広げるユミさん、照子さん、ユウゴさん(左から)

「富士屋」が見た~ブラジル球史~

 野球用品のブランドと言えば世界的に「ミズノ」や「ナイキ」などが有名だが、伯国には日本移民が作った唯一の野球用品メーカー「富士屋」が存在する。現在もブラジル野球代表やソフトボール代表のユニホームを製造しており、ブラジルで野球をした人なら、襟元に縫い付けられた富士山のロゴマークを見たことのない人はいないだろう。かつては、ボール、グローブ、ユニホーム、帽子、靴下などを作っていたが、現在はユニホームと帽子のみの生産となった。「富士屋」は竹田家3代にわたって受け継がれており、今もブラジル野球を見つめ続けている。「富士屋」の歴史は伯国日系人野球の歴史でもある。(敬称略)

◆冨士屋の歴史はリンスから
 「富士屋」の歴史は古く、その始まりは今から  年前の1931年にまでさかのぼらなければならない。創立者の竹田富蔵(大阪)は日本でメリヤス加工業を営んでおり、シャツやサルマタなどを売りさばいていた。

しかし、富蔵は緊縮政策と不況に包まれた日本に見切りをつけ、ブラジルに将来を懸けようと40歳の時、妻のとう、子ども6人を引き連れて聖州リンス市の屋比植民地に入植。間もなく、長男の仙造だけを耕地に残し、すぐにリンス市に運動具店「富士屋」を開業した。

当時すでに、日系植民地では最大の娯楽として野球が盛んに行われており、野球愛好者らは日本から肌身に着けて持ち込んだボロボロのグローブを使用したり、ブラジルに自生している樹木を片っ端からバットとして使用してみるなどして野球用具の製作に試行錯誤を繰り返していた。

36年にはバストス、チエテ、パラグアスー、サンパウロが参加して初の「全伯野球大会」が聖市で開催され、第2回大会からは弓場勇率いるアリアンサも参加している。第3回大会からは日伯新聞社主催となり、入場料を設けて行われるようになった。これに合わせるように各地で野球用品の需要は伸びていった。当時のボールはテニスボールの上に硬い牛皮を縫い合わせて野球のボールを作ることが多かったため、思い切りバットで打つと空中でボールがバラバラになることもあった。余談だがバットにはグァバの木とガイピーラが適木と判明し、以後長らく愛用されたという。専門店「富士屋」の誕生は伯国野球人を喜ばせ、日本と同様に富蔵の商売は繁盛した。

◆伯国野球の興隆
富蔵の連れてきた6人の子どもは末っ子の章子以外はすべて男で、いずれも野球と身近に接してきたためか、すぐに野球の名手として名を上げるようになる。特に次男の正男は長身で、左打ちの本格派プレーヤーだったと伝えられている。着伯直後からリンスの一塁手として活躍した。また、三男の章介は兄弟の中で最も体格に恵まれており、正男の死後(享年24歳)一塁手として活躍した。後に、父の後を継いで公式記録員となる。さらに、四男の富男は37年に創設された実業団リーグで活躍し、戦後は現サンパウロ野球連盟設立の急先峰となる。

そんな中、10歳で渡伯した五男で末弟の金吾は選手としての活躍よりも、富蔵の仕事を兄弟の誰よりも積極的に手伝い、用具作りの腕を上げていった。

36年に竹田一家は聖市に住居を移し、「富士屋」はリベルダーデ区タマンダレー街で新たなスタートを切った。その後、兄弟5人で父の仕事を継いだが、用具作りの中心となったのはやはり金吾だった。

戦時中、敵性国民だった日本移民は野球をすることはおろか、集会を開くことさえ禁じられていたため、「富士屋」も冬の時代を過ごしている。野球用品の需要はなくなり、一家はイタケーラの養鶏場で働くなど辛い生活を送った。

やがて戦争が終わると、日本一の雄峰、富士山から名前をとった「富士屋」の野球用品は戦後移住者にも愛され、その需要はいよいよピークに達することと なった。ほぼ唯一の野球用品店だったため、野球シーズンが始まると注文が殺到し、製造や配達などに追われた。金吾以外は選手や記録員としても活躍していた ため、工場では金吾だけがひっきりなしに入ってくる注文品の生産に忙殺された。一時期、ブラジル人の労働者を雇ったこともあったが、「複雑なグローブ作り の技術などは習得することはできなかった」という。

金吾は54年、34歳の時に生涯の伴侶、照子(84、宮城)を妻に迎え、その後3人の子どもをもうけた。本紙の取材を受けた照子は当時を振り返り、「毎 週末、離乳食を持って野球場に行ったわ」と笑う。また、現在「富士屋」を切り盛りするユミと弟のユウゴは、「私たち兄弟は本当にボン・レチーロ球場で育っ た」と懐かしそうに話した。

◆時代の流れが変わった
日本が高度経済成長に入り、日本からの移民が減少すると野球愛好者の高齢化が進み、野球用品の需要にも陰りが見え始めた。加えて90年に経済開放政策を 進めるフェルナンド・コロル大統領が就任すると、アメリカなどから安い野球用品が伯国に入るようになり、「富士屋」は採算を合わせるのが難しくなった。

86年、金吾は潮時であることを悟り、ユミに「富士屋を畳もうと思う」と告げたが、ユミは祖父から受け継いできた「富士屋」をつぶしてはいけないと考 え、「私が継いで富士屋を残す」と答えたという。エンジニアだったユウゴも、職を辞して姉と共に「富士屋」の存続のために覚悟を決めた。幼いころから野球 と共に生きた兄弟にとって、「富士屋」の看板を降ろすということは耐えがたい寂しさがあった。

3代目に受け継がれた「富士屋」だが、時代の潮流にあらがうことは難しく、ついに生産品目を減少せざるを得なくなる。96年にはグローブの生産を中止 し、「富士屋」の製品はユニホームと帽子だけとなった。だが、伯国野球に対し長年貢献してきた「富士屋」の危機を野球人が放っておくはずがなかった。現ブ ラジル野球連盟会長の大塚ジョルジなどが「富士屋」を多くの団体に紹介し、日系人が作る「富士屋」製品の品質が注目されるようになり、新たに顧客がついた。

ユミは「たくさんの人が富士屋の苦労を知ってくれていたから助けてくれたのだろう」と祖父や父が異国で築いた縁に感謝する。

◆これからの富士屋とブラジル野球
1996年以降、「富士屋」の生産する製品の種類は減ったが、製品の品質は野球用具メーカーの枠を超えて認められるようになり、伯国中から企業のユニ ホームなどの注文が入る。「富士屋」は野球用品メーカーから、高品質の衣料メーカーへと変貌を遂げた。現在は伯国人の熟練した針子(はりこ)を6人雇い、 多様化した顧客からの注文に応えている。

伯国野球の現況の変化にも敏感で、ユウゴは「パラナ州のチームは減ったし、野球をする子どもたちは少なくなったが、モジ・ダス・クルーゼスやサンタ・ カーザ、ピラシカーバなどでは非日系の大学生が野球のチームを作っており、その数は増えている。リーグ戦も活発だ」と新たな動きを指摘する。

また、ロンドリーナ市などでは貧困児童に対して市が野球を通じた教育を行うことで、チームワークや努力の必要性を学ばせる施策が行われていることにも触れ、「野球がブラジルの教育に役立っており、確実に新たな動きはある。ブラジル野球の将来は明るい」と言い切る。

ユウゴの息子、洋(21)も野球人の血を受け継ぎ、現在はアメリカに留学し野球を続けている。ユウゴは「洋が15歳の時、アメリカで行われた大会で優勝した時に父(金吾)は本当に喜んでくれたねえ」と笑顔を浮かべた。

金吾は昨年5月10日に91歳で人生の幕を閉じたが、竹田家に受け継がれている「富士屋」はずっとブラジルの野球を見つめている。

2012年6月23日付

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