宝石研磨師と工房の秘話㊤ 「最高研磨職人」として活動 リオ州ニテロイ在住の藤森良治さん

宝石研磨師と工房の秘話㊤ 「最高研磨職人」として活動 リオ州ニテロイ在住の藤森良治さん
藤森さん(左)と妻の富子さん
宝石研磨師と工房の秘話㊤ 「最高研磨職人」として活動 リオ州ニテロイ在住の藤森良治さん
職人たちの工房ASPC(藤森さん提供写真)

 リオデジャネイロ州ニテロイ市在住の藤森良治さん(87、長野)は約60年間、宝石研磨師として働いてきた。1954年に渡伯した藤森さんは、翌年に日本から呼び寄せられた様々な職種の職人たち「日本工芸職人団」と工房で共同生活をしながら、宝石研磨師としての腕を磨いた。職人を呼び寄せたのは、アメリカ人の(故)パウル・タンキス氏と、その知人で貿易商の(故)柴田正義さん。タンキス氏らはリオに、日本の伝統技術を身に付けた職人たちを日本から集めて工房を開いた。工房で腕を磨いた藤森さんは、「最高研磨をする職人」として見いだされ、宝石店「アムステルダム」の工場長として石と向き合い続けた。今では、工房ASPC(Associação Shibata Paul Carlos)の秘話を知る唯一の存在でもある。(2017年11月14日取材)

◆工房ASPCでの日々

 藤森さんが日本で宝石研磨師として働き始めたのは、東宝自動車の山田社長、元朝日新聞の記者、貿易商の柴田さんの3人が起ち上げた「日本宝石研磨研究所」という工場だった。しかし同研究所は、作った品物がアメリカに受け入れられず、藤森さんが入所してから約1年間ほどで倒産したという。藤森さんは「商売にならなかった。柴田さんがアメリカから輸入した機械や材料もあったが、(輸出先のアメリカに)通用する(研磨)技術が無かった」と当時を振り返る。

 同研究所が破綻した翌年の54年5月、柴田さんの紹介で、藤森さんは渡伯を決意。オランダ商船「ボイスベン号」に乗船し、同年7月に着伯した。当時は農業移民しか移住できない時代だったため、取得したパスポートは「地下資源調査研究」という名目になっており、2年契約で入国したという。

 藤森さんは、同年から職人として、宝石研磨用の機械から作業台まで全て自分で作って仕事に励んだ。

 翌55年、柴田さんと日本で知り合っていたタンキス氏が渡伯。同氏は、日本の伝統技術を身に付けた職人たちをリオに集め、工房を作るという野望を抱いていた。

 『リオ日系協会10周年記念誌』によると、タンキス氏は軍艦「バローゾ・パレイラ号」という船で、日本で募った約30人の職人たちとともにリオに到着。乗船者の約30人の中には、多種多様な職種の職人がおり、左官、家具差物師、有田焼の陶芸家、宝石研磨師、養鶏家、農業技術者などのほか、和食の調理人までいたという。

 その中にタンキス氏や柴田さん、特攻隊で九死に一生を得た経験を持つ職人、画家の(故)伊草昇さんも船舶の現図大工として乗船していた。
 タンキス氏と柴田さんは、着伯後に工房ASPCを建設。工房は2階が寮になっていた。藤森さんは前述の約30人のうち、6、7人の職人たちと工房で働き、共同生活をしていた。約1年が経過した頃、職人4人が出ていき、藤森さんと柴田さんだけが寮に残ることに。後に柴田さんも妻の病のため日本へ帰国。工房で唯一の職人となった藤森さんは、宝石研磨に没頭し、さらに腕も磨いていった。

 当時、リオ市サンチーシモ区にあった工房は、現在は解体されて無くなっている。(戸)(つづく)

2018年2月8日付

コメント0

コメントを書く

Login

Welcome! Login in to your account

Remember me Lost your password?

Lost Password